マウスに鹿の角が生える
西北工業大学、長春理工大学、中国人民解放軍空軍軍医大学、吉林農業大学で構成する中国の研究チームは、鹿の角の幹細胞をマウスに移植し、マウスに鹿の角を生やさせることに成功した、と2023年2月に学術誌「Science」に発表しました。
掲載された論文によると、鹿の角の幹細胞をマウスの頭に移植してみたところ、マウスに角のような軟骨が形成されたと報告しています。
古来より鹿の角は漢 方として珍重されてきました。
鹿の角は毎年生え替わることが知られており、その再生能力は生物研究の世界ではよく知られていました。
そしてこの研究によって今後は再生医療にとって重要なカギをにぎるようになるかもしれません。
中国の研究倫理
生命科学の研究には倫理的な問題が常につきまといます。
日本、アメリカ、欧州諸国では、ヒトの研究だけでなく動物愛護の観点から動物実験においても厳しい倫理規定が定められています。
しかし中国においては研究倫理は日米、欧州各国と比べるとかなり緩いというのが現状です。
特に幹細胞、遺伝子編集の研究が世界的に盛んになってからは、以前にも増して中国の研究倫理が議論されるようになりました。
ゲノム編集を施したヒトの双子が生まれた、というニュースは記憶に新しいところですが、その他にも議論を呼ぶ研究がいくつも見られます。
中国の科学コミュニティではこの状況を憂うべき状況として、倫理規定を世界的に納得されるレベルにしようとする動きが見られます。
しかし研究の現場では、そういった倫理規定を無視する研究者も少なくないというのが現状です。
そんな中で発表されたこの研究は、生命科学の学術誌の中で「Cell」、「Nature」と共に最も権威のある学術誌である「Science」に発表されました。
っこの学術誌に発表された論文は必然的に世界の注目を浴びますが、今回の論文も例外ではなく、科学的な内容と共に研究倫理の手続きはどうだったのかについても一部で議論されています。
ただし、「Science」の審査を通過して掲載されたことで、倫理的な問題もクリアされていると見なされています。
動物の再生能力
ヒトを含めた動物の再生能力は、幹細胞、iPS細胞の研究と関連しながら、または独自に発展してきました。
幹細胞という概念、実物が明らかになる前から動物の再生能力は研究対象となってきました。
生物学における再生とは、「損傷を受けた組織や器官が復元する現象」と定義づけられています。
動物において再生が行われるとき、まずは未分化の「再生芽」が生じます。
再生芽は未分化細胞によって構成された肉の塊で、この塊が次第に完成された形になっていきます。
この時、未分化の再生芽の中には幹細胞、または前駆細胞が含まれており、これらから分化した細胞が細胞分裂することによって細胞が増加、組織、器官を形作っていきます。
これらの研究知見が、現在臨床に役立てるための再生医学の研究に使われています。
生命科学における「再生」は「発生生物学」という分野で扱われています。
発生生物学は、医学、理学、農学、工学の分野でそれぞれの特色を活かして研究が行われてきました。
最近では薬学においても発生生物学に関係する研究が行われていますが、日本ではかなり立ち後れており、iPS細胞の発見でリードした再生医学分野の日本の優位性が損なわれる原因となっていると考えられています。
発生生物学と再生医学の関連は、そこに胚の発生の場合と似通った研究課題があります。
その一例として、再生芽に見られる組織の分化をターゲットとした研究などはどの一例です。
発生生物学ではこの再生現象を研究するために、再生能力の強い動物がモデル生物として用いられてきました。
特に有名なモデル生物がヒドラとプラナリアです。
プラナリアについては、中学、高校の理科、生物の教科書でも扱われており、よく知られているモデル生物です。
ヒドラ、プラナリアは、100分割、200分割されたとしても、条件によっては全身を再生することができます。
また、多毛類であるCtenodilus(ヒトデに分類される)は、身体の1体節を含む破片から全身を再生することができます。
ここまで挙げた例は脊椎動物に含まれていない動物です。
脊椎動物の場合はどうでしょうか。
脊椎動物で最もよく知られている動物はイモリです。
イモリは特に再生能力が優れており、尾や足を切断しても完全に再生されます。
この内容も中学・高校の教科書に掲載されており、よく知られている現象です。
また、トカゲの尻尾も有名な現象です。
トカゲは危機に陥ったときに、自ら尻尾を切断して逃げることがありますが、この尻尾は後にまた生えてきます。
しかし実際は脊椎骨までは再生されず、元もあった尻尾が完全に再生されるわけではありません。
こうした再生能力ですが、人間にも再生能力はあります。
例えば、肝臓の一部を切り取っても、残った部分が再生して元の大きさにまで回復します。
肝臓ほど強力ではありませんが、肺や腎臓、膵臓も再生する事が知られています。
どちらが前でどちらが後ろ?
再生医学で組織、器官の再生を行う場合、場所、種類によっては「どちらが前でどちらが後ろか?」、「そちらが背中側でどちらが腹側か?」が重要になります。
これは発生生物学においては、前後がanterior – posterior、背中、腹側についてをdorsal – ventralとして研究が古くから行われてきました。
これは発生生物の中では「極性」として研究がなされてきました。
再生医学の分野においてもこれは非常に重要なポイントです。
幹細胞を使って組織、器官を構築する際に、前後が逆になる、背中側と腹側が逆になるということになれば、せっかく分化がうまくいったとしても再生がうまくいったとすることはできません。
プラナリアの体をいくつかに切ると、どの断片でも頭の方向へ頭が、尾の方向へ尾が再生してきます。
これこそが極性であり、同じ切り口で、前方の切り口からは尾が、後方の切り口からは頭が生じるわけで、それがどのようにして決まるのかの問題は深く研究されています。
かなり小さな破片であっても、ちゃんと元の体の方向、前後軸を正確に再現することができていますが、様々な分子メカニズムが複雑に関与し合って成立しているとされています。
こうした研究は、これまで挙げたヒトデ、プラナリア、イモリ、トカゲ、そしてヒレが元通りになるゼブラフィッシュ、ハサミが再生されるロブスター、そして内臓だけではなく脳まで再生するウーパールーパーなどで行われています。
鹿の角の再生能力
鹿のオスの立派な角は、毎年生きた組織として生え変わります。
その構造は再生する両生類の手足のものに似ており、おそらくは脊椎動物の組織を再生させるのに役立つだろうと考え、研究グループは研究に着手しました。
そして研究に使われたもう1つの動物、マウスも切れた指先を再生することができます。
この研究では、この2つの哺乳類動物を組み合わせて研究を行い、鹿の角を再生させる前駆細胞がマウスの指先再生に機能する細胞と非常によく似ていることが明らかとなりました。
前駆細胞は、幹細胞と分化細胞の間にある細胞とされています。
幹細胞は分化細胞になるために、前駆細胞への分化を経由して完成された分化細胞になります。
このことは、ほ乳類でありながら再生能力を持つ鹿とマウスには比較的よく保存された細胞・分子メカニズムがあるだろうことを示しています。
今回の研究ではさらに、鹿の角が再生するとき、細胞がどのように変化しているのか詳しく調べるために、RNAの配列が解析されています。
その結果、手足を再生させるカエルやウーパールーパー、指先を再生させるマウスとはっきりとした関連があることがわかりました。
つまり、哺乳類の中で高度に保存された再生メカニズムが存在することが示唆されたのです。
こうした分析結果を実際に確かめてみるため、研究チームは鹿の前駆細胞をマウスに移植してみました。
すると、マウスの頭蓋骨にまさしく角のような軟骨が形成されました。
この軟骨は移植された前駆細胞が成長して形成されたものであることは確認実験で証明されています。
この研究は「鹿の角」という新しい再生研究の題材を提案するものであり、今後鹿の角に着目して研究を行う研究グループが出てきそうです。