1. がん再発のメカニズムの解明
がんを治療する方法は以前と比べて多様化し、がんの部位、タイプによって治療方法が選べるようになりました。
しかしがん治療のポイントは「早期発見」であることは今も昔も変わっていません。
早期に発見できれば、他臓器へ転移している確率が低くなり、治療後の生存率も高くなります。
しかし、ある程度進行したがんの場合、他臓器への転移と並んで警戒すべきものが、がんの再発です。
この再発には「幹細胞」が関わっていることを慶應大学の研究チームが解明しました。
慶応大学の佐藤俊朗教授のグループは、大腸がんの再発メカニズムを解明し、2022年の7月に論文を発表しました。
2. がんの幹細胞とは?
がん細胞は、健康な細胞と比べると増殖力が高く、細胞が不死化しています。
健康な細胞は細胞分裂の回数に限界があり、その回数まで分裂すると健康な細胞でいる限り分裂は再開しません。
しかしがん細胞は細胞分裂の回数に限界がなく、がん細胞自体がなんらかの理由で死ぬ、破壊される状況にならない限り細胞分裂を続けます。
このような性質を持っているがん細胞の集団が、我々が疾患として認識している「がん」だと考えられていました。
しかし近年、がん細胞塊は、無限増殖能力をもつがん細胞のみで作られているのではなく、様々な性質を持つがん細胞の集団であることが徐々にわかってきています。
がん細胞が持つ性質のうち、自分と全く同じ細胞を作り出す自己複製能力は幹細胞にも見られる性質です。
仮説として、がん細胞の中には自己複製能力を持つだけでなく、幹細胞のように様々な性質を持つ細胞に分化ができる能力、多分化能をもつがん細胞も存在するのではないかと考えられるようになりました。
この仮説は1970年代から存在していた仮説ですが、20世紀末から21世紀初頭にかけて分子生物学的な解析手法の発展により、具体的な仮説として扱われるようになりました。
現在考えられているがん細胞の増殖についての仮説は、がん細胞の中には自分と全く同じ細胞を作り出す、つまり細胞分裂をする自己複製能力と、多種類の性質を持つがん細胞に分化できる多分化能力を持つ細胞が存在していると考えられています。
この2つの性質は胚性幹細胞や体性幹細胞に見られる性質で、がんが体内で大きくなり、我々の健康に害を与えるのはこのタイプの細胞が増殖するからではないかと予想されています。
多分化能力は、様々な性質を持つがん細胞を作り出すことによって多様性を生み出せば、抗がん剤治療などでがん細胞を殺す薬ががん細胞塊に到達しても、いくつかの細胞は生き残ることができる、という生存戦略に役立っていることが徐々に起きらかになっています。
これらの性質を持つがん細胞は、現在がん幹細胞と呼ばれ、がん制圧のための重要なポイントであるとされています。
がんの再発、という部分に焦点を当てると、検査で見つかったがんは抗がん剤治療によってがん細胞が殺されて細胞塊がどんどん小さくなります。
現在の検査技術では、数個のがん細胞の塊を体内で発見するためにはかなり大がかりな検査が必要です。
一般的な健康診断などの検査レベルではそこそこ大きながん細胞の塊は発見できますが、数個の小さな細胞塊の発見は難しいとされています。
検査でがん細胞塊が見あたらなくなって「がんが治癒した」という状況になっても、実は体内には少数のがん幹細胞が残っており、この細胞が再度分裂をすることによって大きな細胞塊に成長し、検査で発見され、「がんが再発した」と診断が下されると考えられています。
今回、慶應大学のグループは、このがん幹細胞に新しい性質が存在することを発見し、その性質が大腸がんの再発に大きく関わっていることを明らかにしました。
3. 休眠状態で時を待つがん幹細胞
慶應大学の研究から予測される大腸がんの再発メカニズムは以下のようになります。
まず、大腸にがんが発生し、増殖を繰り返してがんの細胞塊を構築し、ヒトの健康を脅かし始めます。
検査などで発見されたこの細胞塊は、がん幹細胞を含む様々な性質を持つがん細胞で構成されています。
治療方法として抗がん剤が選択され、抗がん剤が体内に投入されます。
その結果、大腸のがん細胞塊を構成する細胞が抗がん剤によって次々と殺されていきます。
しかし中には、この抗がん剤に耐性を持っているがん細胞も存在しています。
そういった細胞は多く存在しているわけではないので、検査でがん細胞塊を見るとどんどん小さくなり、そして消失したように見えます。
ここで生き残ったがん幹細胞は、「無限に増殖する」という自らの性質を停止し、冬眠のような状態になります。
休眠したがん幹細胞は、何らかの刺激で増殖を再開し、大きく成長したがん細胞塊が検査で発見され、再発したと診断される、これが慶應大学の研究グループが考えたモデルです。
4. 分子メカニズムはどうなっているのか
この研究を分子メカニズムでもっと細胞を見てみましょう。
研究グループは、大腸がん患者から採取したがん組織を使って、小さな人工がん細胞塊を作成しました。
この人工大腸がん細胞塊をマウスの背中に移植し、がん幹細胞特異的に発光させて観察しました。
まず、抗がん剤をこのマウスに投与すると、多くの細胞は抗がん剤によって次々と死んでいきますが、がん幹細胞のいくつかは大腸の表面にある基底膜に付着して抗がん剤の攻撃を逃れ、生き残りました。
抗がん剤の投与を停止すると、この付着したがん幹細胞は基底膜から離れ、再度増殖を開始しました。
これががん再発のメカニズムではないかと研究グループは考え、遺伝子、タンパク質の解析を行っています。
すると、YAPという分子が大きく関与していることがわかりました。
YAPはYes-associated proteinという正式な名前を持つ、Hippo腫瘍抑制経路の重要なエフェクターです。
転写共役因子として作用しますが、重要なのはがんを抑制する経路の重要な分子であるということです。
今回の研究では、このがんを抑制する分子ががんの再発に重要であることが提唱されており、一見真逆の性質を持っているように見えます。
しかし、がんの抑制に重要なこの分子が制御異常を起こすと、逆にがん細胞を助ける働きをしてしまいます。
YAPは、幹細胞と前駆細胞の増殖活性を調節して、健康な組織の成長と大きさを制御しています。
がん細胞はこの性質を逆手にとって、自分に都合の良いように働かせているのです。
YAPは細胞の運命決定、つまり分化過程での方向性の決定に重要という報告もあり、さらに肝臓においては、成熟した幹細胞から肝前駆細胞に脱分化させる機能も持ち、がん細胞にとっては利用できれば自分の生存戦略に味方してくる強力な武器になります。
実際、大腸がんだけでなく、他の臓器のがん細胞でもこのYAPは高発現しており、がん細胞のがん幹細胞化、またがん細胞再増殖のカギとなる分子であることが予想されています。
5. がんを完全に体内から除去することは難しい
がんは古くから知られている疾患であり、多くの人が亡くなっている疾患でもあります。
その割になかなか制圧できないというのは、こうした複雑な生存戦略をがん細胞は持っており、しかもその戦略が多様性に富んでいるため、ヒトが選んだ治療方法でも生き残ってしまう細胞が存在する確率が高くなるためです。
がん細胞を体内から完全に除去することは難しい、ということは今や医学分野の常識になりつつあります。
そのため、がんの治療が終了して治ったと判断された後も、定期的に検査を行い、再発に備えるのです。
がんの制圧については、まだまだ当分先の話であると考えられています。
がんが見つかれば治療しますが、その治療方法は発展していっても、がんは高確率で少数の生存がん細胞によっていつでも再発できる体制を維持します。
そのため、体内から完全にがん細胞を除去することは難しく、その方法の研究は今でも世界中で行われています。