幹細胞(stem cell)という言葉を生み出したソ連の研究史をざっくり解説

この記事の概要
  • 他国と競争することで、技術は劇的に躍進する。幹細胞研究もその1つ。
  • 幹細胞(stem cell)という言葉を生み出したのはソ連
  • 公開されなかった成果も多いが、知見は現代の医学研究に貢献している

科学技術が劇的に躍進する時、多くの場合、そこには「競争」があります。

1969年7月、アポロ11号が月面に着陸した頃、アメリカとソ連は「宇宙開発競争(※この名称は非公式)」の真っただ中でした。お互いに抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げ、結果としてさまざまな技術が開発・確立されました。

宇宙だけではなく、軍事、政治、科学など、アメリカとソ連は激しく競争していました。科学競争においては「ソ連科学アカデミー」が中心となって、最新の科学を研究していました。幹細胞の研究もその1つです。

今回の記事では、ソ連時代に幹細胞の研究がどのように行われていたか解説します。ただしソ連は多くの情報を公開していません。自国のための研究としていましたので、学会で発表するようなこともしていません。そのため断片的な情報をつなぎ合わせて解説をします。

目次

1. 幹細胞(stem cell)という言葉を作りだした

細胞が何から作られるのか?という問いは古くからありました。

さまざまな説が発表され、科学の進歩と共にあるものは否定され、あるものは肯定されて生き残っていきました。ソ連の科学者であったレペシンスカヤは、『新しい細胞は「生きる物質」から生まれる』という説を19世紀初めに発表しました。

心臓の細胞は、最初から心臓の細胞だったのではなく、何かから心臓の細胞が作られる」という考え方は、幹細胞の概念にもつながる考え方です。この考え方は、当時ソ連科学アカデミーで絶大な権力を持っていたルイセンコ(レペシンスカヤが所属する研究者グループのリーダー)によって支持されます。

しかしルイセンコは、メンデルの法則、ダーウィンの自然選択説を否定していたので、遺伝学の研究は、ルイセンコに権力を与えていたスターリンが死去する1953年まで表だって行う事ができませんでした。これによって細胞研究はアメリカに大きく後れを取る事になります。

その一方で、1900年代初め、まだソ連が成立していないロシア帝国時代に、ロシアの組織学および発生学の科学者であるマキシモフ(Alexander A. Maximow)は「幹細胞(stem cell)」という言葉を作り出しています。彼は

  • 血液中の血球が次々と作り出されている現象は、細胞分裂だけでは説明がつかない
  • 別の細胞が血球に変化しているのではないか

と考えたのです。

2. 核実験による健康被害と幹細胞研究

ソ連時代の幹細胞研究は、核兵器の開発と関連して行われました。ソ連とアメリカの核兵器開発競争により、ソ連のセミパラチンスク(現カザフスタンの北東部)では大気圏内核実験が何度も行われています。核実験は「大気圏内」「大気圏外」「地下」「水中」で行われますが、大気圏内での核実験は、放射性物質が広範囲に飛散するため、大きく周囲に悪影響を与えます。

セミパラチンスクから60kmほど離れたところにはクルチャトフという都市があり、周辺には村々が点在していました。セミパラチンスクの核実験により、この住人達は放射能による健康被害を受けています。

大気圏内の核実験は、1963年に部分的核実験禁止条約が結ばれて行われなくなりますが、それまでは周囲の住民は放射能による健康被害を受け続けます。ソ連政府が着目したのは、住民の健康被害への対策ではなく、別の対策でした。もし、アメリカからの核攻撃があった場合、放射能によって同じ健康被害が起こると考え、ソ連科学アカデミーに研究を行わせました。

特に目立った白血病については深く研究されています。白血病幹細胞による急性白血病は、白血病幹細胞が治療抵抗性を示し再発の原因になります。そのため、白血病幹細胞自体を治療ターゲットとしなければなりません。

これらの白血病幹細胞についての知見は最近のものではありますが、ソ連時代にはこれらの研究は国家機密に属するものであり、国際誌に論文を発表することなどは出来ませんでした。ソ連の研究者が現代と同じ知見を得ていたかどうかはわかりませんが、白血球、赤血球となる造血幹細胞の研究においては、現代と同等レベルの知見を得ていたのではないかと考えられています。

3. 治療方法としての幹細胞研究

1979年、ソ連はアフガニスタンに侵攻します。

1989年の撤退までに、ソ連軍は約1万5千人の戦死者と、7万人以上の負傷者を出します。この時、ソ連は、戦闘で「脊髄」「脳」といった神経系の損傷を負った場合、幹細胞技術を応用して治療するため研究を行っていた、と言われています。

実際にどのように行われていたのかは、国家機密、軍事機密のベールに包まれていて明らかではありません。しかし、かなり進んだ研究が行われていたのではないかと予想される事は、ソ連崩壊後、冷戦終結後にいくつか見られています。

1960年代から70年代にかけて、アメリカンフットボールのサンフランシスコ・49ersでQBとして活躍したジョン・ブロディは2000年に脳卒中で倒れます。その後、モスクワ、カザフスタンなどで治療を受け、かなり回復しています。これはソ連時代から培った医療技術によって、ロシアでは脳損傷について高度な技術を持っているためではないかと考えられています。

4. 原発事故・ソ連崩壊による研究者と情報の流出

1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生します。放射能による健康被害が広範囲にわたって発生しました。この事故の5年後、ソ連は崩壊します。

ソ連の崩壊前後の政治的混乱も原因の一つと考えられていますが、この原発事故の健康被害に対するソ連、そしてその後のロシアの対応は十分であるとは言えませんでした。実際、1980年代後半からソ連は急速に弱体化しています。18年間にわたるブレジネフ政権下で、ノーメンクラトゥーラ(社会主義国で、共産党幹部や上級官僚などの特権階級)と呼ばれる官僚主義がはびこり、経済成長率も低下していきます。

そのため、科学アカデミーにも十分な予算がなく、研究者の世界も縁故主義による幹部登用などで、積み上げてきたものを活かす体制ができていなかったのではないかと考えられています。チェルノブイリ事故での健康被害への対応も、追跡調査ができていないなどの不備が目立ち、国際協力に頼らなければ治療もできない状況になっていました。進んでいたと思われる幹細胞研究も治療に活かす事ができませんでした。

ソ連の歴史は、末期においてチェルノブイリ原子力発電所事故という未曾有の災害を経て閉じられる事になりますが、この時期のソ連はアメリカと激しい宇宙開発競争、科学における競争をしていた面影はなく、先に述べたように、ソ連崩壊後の研究者海外流出を招いてしまいました。

5. まとめ

ソ連という国は、科学技術立国の側面もあったと考えられています。しかし、国家の性質上、科学の成果を自由に発信できる国ではありませんでした。社会主義国家の特性とも言えますが、研究成果は国民にフォードバックするのではなく、国家の資産、国家が国際的に有利になるためのツールとして用いられていたと考えられています。

そのため、どのような研究が行われ、どのような成果が出されていたかについては断片的な情報しかありません。ロシア帝国、ソ連、現在のロシアを通じて、ノーベル医学生理学賞は1904年のパブロフ、1908年のメチニコフから今日に至るまで出ていません。これは「秘密主義であるから」という意見もあります。

ソ連が崩壊後、知見を持った優れた科学者は周辺の新たな国で研究を続けます。ある国は世界で5本の指に入る医療大国となり、幹細胞を使った再生医療の最前線を突き進み、世界をリードする国になっています。ソ連が自国のためだけに行った研究から続く知見が、現代の医学研究に貢献している事も事実なのです。

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