iPS細胞|実用化に向けた最新動向|京都大学iPS細胞研究財団へ事業移管

この記事では、iPS細胞の実用化に向けた動きに関して解説しています。

iPS細胞について詳しく知りたい方は、まずはこちらの記事をご覧ください。

目次

1. iPS細胞備蓄の新しい動き

2020年4月、iPS細胞を備蓄して、企業、研究期間に提供する事業が、京都大学から公益財団法人に認定された京都大学iPS細胞研究財団に移されました。

それまでは、京都大学iPS細胞研究所がこの事業を行ってきました。健康な人から提供された細胞を使ってiPS細胞を作製し、それをストックしておいて、各機関の求めに応じて分譲する、という業務を研究所が一手に引き受けていました。今後は、iPS細胞の製造、品質管理を研究組織から独立させ、効率化をはかることによって実用化を進めていきます。

2020年4月時点で、iPS細胞は7人の提供者から提供された細胞をもとに27株作られています。企業などの営利団体には1株10万円、大学などのアデミック、研究期間には無償で提供しています。今後もこの価格は維持し、さらに特定の細胞の作製をオーダーメイドで受注するという業務も開始し、収益化をはかります。

運営するための経費は、おおよそ18億円と見込まれ、収益化が軌道に乗るであろうと見込まれる2022年までは国からの補助金で運営し、2023年度以降は寄付、事業の収益などでまかなう予定です。ここまで、寄付金として約190億円が集まっていますが、このうちの100億円が財団に移行し、運営資金となります。

この過程には紆余曲折があり、iPS細胞の事業自体が継続の危機になっていました。各方面からの働きかけでこの財団移行が始まったのですが、ここにいたるまでに何が起きていたのでしょうか。

2. iPS細胞備蓄事業、突然の支援打ち切り

2019年11月、京都大学のiPS細胞の備蓄事業への国の支援が打ち切られることが報道されました。国は年間10億円をこの事業への支援としてきましたが、基礎研究から事業化への可能性が出てきたことと、企業のニーズとのすれ違いが出てきたことから打ち切りが決定されたと考えられています。

この決定は、総理側近の首相補佐官と、厚生労働省の審議官によってなされ、山中教授に通達されたという報道がありましたが、実際にどのような経緯で支援打ち切りが決定されたのかは不明です。

根本には、「研究現場と、ビジネス化を考えている企業との考え方の違い」が顕著になったことがあると考えられています。研究現場では、様々な疾患に対処する、または治療の選択肢を広げるために、いくつかのタイプのiPS細胞を備蓄しようと考えていました。しかし、企業側は、iPS細胞のタイプが増えると、それぞれのタイプで細胞ががん化しないかなどの安全性の試験をしなければならない、それではコストがかかる、と難色を示していました。免疫抑制剤が進歩してきているので、拒絶反応が起きれば免疫抑制剤で抑え込めばよい、と考えたわけです。

政府はこの件で、ビジネス側、つまり経済界側の肩を持った形になったわけですが、その通達は、内閣官房の幹部らが2019年夏に京都大学を訪れ、まず打ち切りの可能性が伝えられ、その後に一方的に打ち切り宣告が来たという流れで行われました。

3. 支援継続の決定へ

その後、時を経ずして支援が当初の予定通り2022年度まで継続されることになりました。この支援を受けて事業化を目指す計画が立てられ、2020年4月の報道にあるように、京都大学から公益財団法人に認定された京都大学iPS細胞研究財団に移される事に決定されたわけですが、なぜすぐに打ち切りが撤回されたのでしょうか。

この撤回にはいくつかの理由があります。世間の耳目を集めたのは、この支援打ち切りを主導した首相補佐官と厚生労働省審議官との関係、打ち切り決定がほぼ官僚の独断で行われたという不透明性から、政権が傷口を広げないためではないか、という理由ですが、ここでは科学的、医学的な理由について解説します。

iPS細胞は様々な細胞に分化させて医療に使うことができると考えられていますが、備蓄されているiPS細胞はもともとドナーからの提供に依存しています。つまり移植される患者からすると、「他人の細胞から作製されたiPS細胞を使い、分化誘導して完成した組織、器官を移植される」ということになります。そうなりますと、患者の体では、他人の細胞に対する拒絶反応が起こります。

iPS細胞を作製するとき、ドナーの細胞は分化した状態から未分化の状態にされるのですが、「細胞が誰由来なのか?」まではリセットされません。移植された患者の免疫システムは「自分以外のものが体内に入った」ということで、排除しようと動き始めます。この結果、移植した組織、器官が攻撃を受けて機能しなくなってしまいます。

例を挙げると、角膜移植の場合、拒絶反応が起きると、角膜に血管が入り込むという現象が見られることがあります。角膜は透過性が必要なため、血管が存在しません。角膜の細胞は酸素や栄養を、角膜を覆う涙などから取り入れています。コンタクトレンズに酸素透過性が重要なのは、角膜細胞が血管から酸素を取り入れるのではなく、外界からダイレクトに酸素を取り入れているためです。

透過性が必要な組織に血管が入ってしまうと、それだけで組織の機能が不全となります。今まで、ドナーの角膜を直接移植した角膜移植で、回復した視力が長期間維持できないことがあるのはこの拒絶反応が原因です。

この拒絶反応の原因は、HLA、ヒト白血球型抗原の違いによるものです。この型はいくつかのタイプがあり、異なるタイプの細胞、組織、器官が移植されると患者の体は拒絶反応を起こします。しかし、拒絶反応が起きにくいHLAの型が存在しているので、この型を持つドナーから作製したiPS細胞を使えば、免疫の拒絶反応リスクを抑制できるのです。

拒絶反応が起きにくいHLAの型は、1種類ではなく数種類、また患者のHLAのタイプによっても異なります。そのため、京都大学側は、様々なHLA型のドナー由来のiPS細胞を備蓄し、拒絶反応が起きた場合、別のHLA型iPS細胞を提供することで再生医療の安全性と効果を高めようと考えました。

研究者、医師と企業の違いはこの点にあります。研究者、医師は、多様な型のiPS細胞を準備することによって、拒絶反応が起きた場合はすぐに別の型のiPS細胞を提供することを拒絶反応への解決策としました。一方で企業側は、多くのタイプのiPS細胞を準備すればその安全性確認試験にコストがかかる、つまり10種類のiPS細胞があれば、それぞれのタイプごとに臨床試験で安全性を確認しなければならない、それでは企業の利益が減る、と考え、双方の考え方が対立したわけです。

これだけを考えると、患者のことを考える研究者と医師、一方で企業は儲けることしか考えていない利益優先、ととらえられがちですが、実際は異なります。

現在、iPS細胞に限らず、様々な事業が「収益化」を求められています。一昔前までは、国が補助することによって運営されていた事業が、「自分達で利益を出し、国に頼らずに運営せよ」とされてしまっています。

典型的な例は大学です。これまで国の補助金と学生からの学費で運営してきた大学は、「学生からの学費と大学の研究成果をビジネス化して、国からの補助金がなくても運営できるようにせよ」という国の方針により、人件費の削減、研究費の削減で教育がままならない状況になっています。学費を値上げして収入を増やそうとすると、経済的に大学に進学できない国民が増加し、結果として日本の科学技術がさらに弱体化すると考えられ、大学は学費を上げることができない状況です。

つまり、企業側は利益よりも(当然多少は利益について考えていると思いますが)、iPS細胞事業自体が国からの補助金なしで運営することが重要であると考えているわけです。国からの補助金なしで運営できれば、国方針に左右されることなく、医療現場にiPS細胞を安定して供給することができます。つまり、国から独立してしまえば、政権が変わった事による政策変換の悪影響をiPS細胞事業は受けなくなるわけです。

結果的に、事業化への道筋が明確になり、iPS細胞の安定供給に向けて少し進んだ感はあります。しかし、今回の「官僚の独断と有無を言わせない方針転換」を行った政治システムは残っており、iPS細胞に限らず、サイエンスを基本に発展しようとする事業のために、そういった政治システムを改善するか、それともそういった政治システムが介入できない構造を作り出すのかを考えなければならない時期に日本はさしかかっているのかもしれません。

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