2020年1月に、iPS細胞にがん化に関連する遺伝子異常、染色体異常が発見されました。

この記事では、その報道に関する内容や、iPS細胞の遺伝子異常の理由に関して解説していきます。

1. 京都大学から提供されたiPS細胞に遺伝子異常

2020年1月、京都大学iPS細胞研究所のストックから研究機関に提供されたiPS細胞に、遺伝子異常が見つかったと報道されました。これまでiPS細胞を使った再生医療では、すべて細胞の遺伝子チェックを行っているため、患者へ遺伝子異常を持つ細胞が食された可能性はないとされています。

患者に移植するときには、細胞の遺伝子検査を含む厳しい検査があるので、現時点で患者に何らかの不利益が生じる可能性は低いのですが、「こういうケースも起こり得る」とされていた「iPS細胞の遺伝子異常」が実際に起こったかたちとなりました。

しかし、iPS細胞自体には遺伝子解析の結果異常のないことが明らかとなっており、これは細胞を譲渡された研究機関の細胞操作過程で起きた異常と考えられます。そしてこの遺伝子異常は、「研究機関の操作ミスによって起こった可能性は低い。iPS細胞、または細胞は、こういうことが頻度は高くないが起こり得る」ということを証明した出来事になります。

2. 遺伝子異常とは?

遺伝子異常が起きた時、多くの場合はその遺伝子から作られるタンパク質に影響が出ます。どんな影響が出るかを以下に挙げると、

  1. タンパク質が合成されない。
  2. タンパク質が不完全な形で合成される
  3. タンパク質が過剰に合成される。

1、2の場合、その遺伝子から作られるタンパク質が細胞にとって必要な機能を持つため、タンパク質が合成されなかったり、不完全な形で作られたりして機能が不十分であると、細胞に対する機能に大きな影響が出ます。また、過剰に合成されると、そのタンパク質が必要以上に細胞内で機能してしまうため、これも細胞に影響が出るケースが多数あります。

では、このとき遺伝子では何が起こっているのでしょうか?可能性を以下に挙げます。

  1. 遺伝子配列が本来の配列ではなくなってしまっている。
  2. 遺伝子発現の調節メカニズムが狂っている。

まず1について説明します。遺伝子は、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という塩基が連なったものです。ACGTGCCTGGATGAというように、塩基の配列によって、細胞、身体に必要なタンパク質を合成するための設計図を構成しています。

もっとも知られた遺伝子異常は、この塩基配列が何らかの作用によって変わってしまうことです。これについても以下に挙げます。

  1. 塩基配列の一部がなくなってしまう。
  2. 塩基配列を構成する塩基が別の塩基に置き換わってしまう(例えばAがTになってしまうなど)。
  3. 本来底にはないはずの塩基配列が挿入されている。

1から3が遺伝子配列上に起きた場合、設計図が狂ってしまうことになるので、必要なタンパク質が正しく合成されない可能性がかなり高くなります。稀に正しいタンパク質合成に影響しない異常もありますが、ほとんどの場合は合成されるはずのタンパク質に異常が出てきます。

2については、エピジェネティックスという最近の研究によるものです。遺伝子の塩基は、メチル化される、脱メチル化される、またアセチル化される、脱アセチル化される、という調節で遺伝子の発現が増加したり減少したりします。

「遺伝子の異常」と言う場合、従来は遺伝子の塩基配列に何らかの変化があることを指す場合がほとんどでした。しかし最近では広義の意味でこういったエピジェネティックな制御での異常も遺伝子異常という場合があります。実際に、健康な細胞とがん細胞の間ではメチル化、アセチル化される場所が異なっているという報告もあります。

3. iPS細胞に見られた遺伝子異常

今回確認された遺伝子異常は、遺伝子の塩基配列上の異常です。遺伝子の塩基配列は、タンパク質の設計図となる部分、遺伝子を発現させるために必要な部分、タンパク質の合成には関係のない部分、などいくつかに分類されます。今回の異常は、タンパク質の設計図となる部分上の配列が変わってしまっているという遺伝子異常です。この塩基配列が変化したことによって、その遺伝子から作られるタンパク質が作られない、または不完全な状態になってしまったと考えられます。

合成に影響が出たタンパク質は、AT-rich interactive domain-containing protein 1A(ARID1A)と呼ばれるタンパク質です。ARID1Aタンパク質の設計図となる遺伝子は、ARID1A遺伝子と呼ばれます。

様々な遺伝子の発現を促進するためには、SWI/SNFクロマチンリモデリング複合体というタンパク質の集合体が必要です。ARID1Aタンパク質は、この複合体の一因となるタンパク質です。ARID1Aタンパク質ができない、または不完全であると、この複合体が正常に作用できず、様々な遺伝子の発現に影響が出ます。

ARID1Aがないとがんになるのか、それともがん細胞にとって邪魔だからARID1Aがないのかは、まだ明らかになっていませんが、このARID1A遺伝子に異常のあるがん細胞は、グルタチオンという物質の量が細胞内に少ないことがわかっています。ARID1Aタンパク質は、SLC7A11遺伝子の発現を誘導する事が知られていますが、この遺伝子から作られるSLC7A11タンパク質は、グルタチオンの細胞内量のコントロールに重要な働きをします。

つまり、ARID1A遺伝子異常のがん細胞は、グルタチオン量のコントロールがうまくいかないということになります。となると、このがん細胞のグルタチオン合成経路を薬などで完全に停止させれば細胞内のグルタチオンは枯渇します。グルタチオンは酸化ストレスの原因となる活性酸素(ROS)の解消に重要なため、グルタチオンを持たないがん細胞は、酸化ストレスに弱くなり、活性酸素によって細胞死が誘導されると考えられています。

となると、ARID1Aは、がん細胞にとっては必要な遺伝子ということになります。しかし、女性特有の卵巣明細胞がん、アジア人に多い胃がんなど、いくつかのがんでは、ARID1A遺伝子が欠損していることがわかっています。つまり、ARID1A遺伝子は、がんを抑制する遺伝子と考えられており、この遺伝子が欠損するなどの異常を受けた場合、細胞ががん化するリスクが非常に高いと考えられています。細胞にとっては酸化ストレスに対抗するためには必要だが、がんになるためには邪魔になる遺伝子、と考えられます。

今回のiPS細胞は、がん細胞化する可能性があった、ということになります(注意:このiPS細胞のがん化が確認されたわけではありません)。提供時点ではARID1A遺伝子には異常がなかったということは、その後の分化誘導ステップ、培養ステップで異常が生まれた、と考えられます。

4. なぜiPS細胞はがん化するのか?

iPS細胞が作られた当初、iPS細胞のがん化リスクは遺伝学的見地から大きな問題として捉えられていました。しかしその後、そのリスクファクターを除いたiPS細胞作製方法が確立され、当初危惧されていたがん化リスクは排除されました。

しかし、細胞のがん化リスクのファクターは1つではなく、また我々がまだ知らない、研究されていないがん化リスクも存在すると考えられています。そもそも、がん化リスクを全て我々人間が知っていたとしたら、がんは現在制圧目前の疾患となっているはずです。

人工的に細胞を培養するということは、細胞の全てを人間のコントロール下に置くことができるという事ではありません。我々の実験ノート、研究ノートに記されない、つまり人間が知ることのできない何らかのファクターが細胞のがん化に関わっていてもおかしくないのです。

iPS細胞は、様々な細胞に分化できる細胞で、増殖能力も持っています。一般的に健康な細胞は、人工培養では分裂回数が限られ、iPS細胞のように延々と細胞分裂によって増殖することができません。人工培養において無限に増殖する細胞は、各臓器、組織から確立された「がん細胞」です。

人工的な培養は、人体内で行われている様々な調節全てができていない、と考えることが現在の常識になっています。となると、iPS細胞は今後も頻度は低いとはいえ、がん化するものが出てくると予想されます。しかし医療面においては、移植前に厳重な遺伝子検査を行いますので、現時点ではがん化したiPS細胞由来の細胞を患者に移植してしまった、というリスクはかなり低いものと考えられます。

iPS細胞が何故がん化するか、という問題は、今後のiPS細胞の研究だけでなく、がんの研究の知見も必要で、これらの知見を統合して解析していかなければならない課題と言えます。

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