1. iPS細胞を持っている生物
iPS細胞は、人工多能性幹細胞と呼ばれ、身体を構築している体細胞(一般的な細胞)に4種類の遺伝子を導入して作られる、「人工の幹細胞」です。
遺伝子導入によって形質を転換し、iPS細胞にすると、身体を構築する様々な細胞に分化でき、さらに分裂・増殖を繰り返しても幹細胞の性質を維持できる自己複製の機能も持ちます。
2006年に山中伸弥教授によって初めて作られて以来、再生医療の中心として様々な治療に使われています。
一般的に脊椎動物(背骨を持つ動物)は、iPS細胞を持っていません。
体内に様々な幹細胞を持ってはいるのですが、いったん分化した細胞をリプログラミングしてiPS細胞にするということは、脊椎動物では不可能です。
しかし、脊椎動物はiPS細胞のような万能細胞を作り出す遺伝子ネットワークを持っています。
持ってはいますが、それを利用していないため、再生能力が比較的限定されているのが現状です。
しかし、脊椎動物以外では、そのリプログラミング能力を使っている生物がいるのではないかと考えられていました。
広島大学大学院統合生命科学研究科附属臨界実験所の所長である田川訓史教授を中心とした有本飛鳥助教、佐々木あかね研究員、さらに沖縄科学技術大学院大学の佐藤矩行教授のチーム、ハワイ大学のトム・ハンフリーズ教授のグループらの研究ユニットは、このリプログラミングを行っている生物を特定し、その解析を行い、研究結果を発表しました。
2. ギボシムシとは?
今回の研究で、リプログラミングを行っている生物として特定されたのは「ギボシムシ」という生物です。
ボシムシは、半索動物門を構成する生物です。
半索動物とは、ギボシムシ類とフサカツギ類を中心とするグループで、主に浅い海の海底に生息しています。
半索動物は、ヒトなどが含まれる脊索動物、ウニ、ヒトデが含まれる棘皮動物らと共に新口動物という分類群に含まれる、または新口動物の側系統とされています。
半索動物には、口盲管という構造があり、この構造が脊索に類似しているため、脊索動物との類縁関係性が指摘されています。
進化的にも、半索動物と脊索動物は関連性が仮説として挙げられており、半索動物様の生物が脊索動物の祖先ではないかという研究者も存在します。
遺伝子解析の結果では、ギボシムシに似た生物が、半索動物と脊索動物の共通祖先である事を指示する結果が得られています。
ギボシムシは無脊椎動物に属し、半索動物門に属しますが、この属、または類縁関係にあると思われる動物群の中でも非常に高い再生能力を持つことが知られています。
3. 発表された研究内容
発表された内容を大まかに述べると、「脊椎動物ではiPS細胞のような万能細胞は人為的な遺伝子操作が必要であるが、ギボシムシの場合は、自ら必要なリプログラミング因子を使って再生していることが明らかになった」という内容になります。
脊椎動物にも、万能細胞を作り出す遺伝子ネットワークは存在していますが、再生に利用をしていません。
そのため、我々ヒトに代表される脊椎動物は再生能力が限定された状態にありますが、ギボシムシはこの遺伝子ネットワークを自ら利用することができます。
脊椎動物門の哺乳類で発見されたリプログラミング因子は、iPS細胞の構築に使われており、Oct4、Sox2、Nanog、Klf4の4つがよく知られています。
この因子、遺伝子名は哺乳類のもので、同じようなギボシムシにおける因子は、Pou3、SoxB1、Msxlx、Klf1/2/4です。
哺乳類のOct4、Sox2、Nanog、Klf4と、ギボシムシのPou3、SoxB1、Msxlx、Klf1/2/4は、それぞれ遺伝子の配列に相同性(同じ塩基配列パターンを持つということ)があります。
機能的にも、ギボシムシのPou3は、マウス内在性のOct4と同じ機能を持つことが明らかになっています。
脊椎動物は再生能力が限定されている、と先の述べましたが、動物に詳しい方ですと、イモリなどでは再生能力が比較的高いことを知っているかもしれません。
同様に、ゼブラフィッシュでもこうした再生能力を見ることができますが、これらの再生は、リプログラミング因子が主力となって再生をするわけではありません。
つまり、イモリなどの再生では、万能細胞の出現によって再生が可能になるわけではありません。
イモリの脚が欠損すると、欠損した部分で複数の細胞が協働して再生を行うので、細胞単体が再生、分化誘導能力をもつわけではありません。
一方で、万能細胞、全能性細胞を使って身体を再生する生物としては、プラナリアが知られています。
プラナリアは教科書にも掲載されているように、真っ二つに切断されても、2つの切れ端からそれぞれ身体が再生し、2つの個体が出現します。
プラナリアは、常時全能性を持つ幹細胞を身体に保持しています。
この細胞は、新生細胞と呼ばれており、身体の欠損が起こると、新生細胞が再生芽を形成して、プラナリアの身体を構成する全ての細胞に分化し、個体の再生を行います。
今回の研究では、ギボシムシがプラナリアのように、常に全能性の幹細胞を保持している可能性は低いとしています。
つまり、身体が損傷したときのために、常に全能性幹細胞を準備しているわけではないということです。
ギボシムシの場合、身体の一部が損傷を受けると、損傷部位付近に活発に増殖、つまり細胞分裂を行う細胞が出現します。
この細胞は、背中側の表皮に表れ、その部位で活発に細胞分裂を行います。
そして、この細胞がPou3、SoxB1、Msxlx、Klf1/2/4というギボシムシのリプログラミング因子の高い発現を維持しながら、損傷した部位の組織を再生していくことがこの研究で明らかになりました。
現時点で、この活発に細胞分裂をする細胞が、ギボシムシの背中側表皮のどの細胞由来なのかは明らかになっていません。
考えられるケースとして、背中側表皮には、通常は幹細胞として存在はしていないが、損傷が起きるとリプログラミング因子によって全能性幹細胞に形質を転換する細胞がランダムに存在しているというケース、そしてギボシムシの背中側表皮の細胞は、どの細胞もリプログラミング因子の調節によって全能性幹細胞に形質を転換できる、という2つのケースが考えられます。
4. ギボシムシの研究知見はヒトに応用可能なのか?
このように、ギボシムシで明らかになった研究知見ですが、ギボシムシとヒトでは見た目から大きな違いがあり、果たしてギボシムシの研究がヒトの医療に役に立つだろうか?という疑問を持つ方も少なくないと思います。
生物は見た目が大きく違っていたりしていても、実際に遺伝子には思ったよりも大きな違いはありません。
実際、哺乳類のOct4、Sox2、Nanog、Klf4と、ギボシムシのPou3、SoxB1、Msxlx、Klf1/2/4は、遺伝子の塩基配列は同じ部分が非常に多く、機能的にも類似である事がわかっています。
他の生物においても、昆虫の自然免疫に関わる遺伝子は、その機能、配列がヒトの自然免疫関連分子とほとんど同じであり、ショウジョウバエなどの自然免疫の研究知見は、ヒトの自然免疫の研究にも応用されています。
ギボシムシの細胞が、どのようにしてリプログラミング因子の機能である全能性幹細胞へのスイッチを入れるのか?予め全能性幹細胞になる細胞は決まっているのか?など、まだまだ解決しなければならない疑問は多く残されていますが、再生能力が高い生物の再生能力を解き明かすことは、関連する分子によっては比較的早い期間でヒトの医療に応用できることになります。
ヒトの医療の発展には、ヒトの研究だけでなく、幅広い生物の研究から知識を吸い上げることが必要である事がわかってきています。
20世紀末から21世紀初めにかけて、日本は「役に立つ研究」を重視し、ヒト、哺乳類の研究を重視する政策を実行し、他の生物を使った研究が、研究室の廃止、従事する研究者の減少で世界から大きく取り残されてしまいました。
しかし近年こういった政策も見直されつつあり、今回のギボシムシの研究のように大きな業績を挙げる研究グループも増えてきています。