1. 熊本大学、不死化赤芽細胞株の樹立に成功
熊本大学は、赤血球へ分化する能力をもつ不死化赤芽細胞株をヒト成人骨髄細胞から樹立することに成功し、「ELLU細胞」と命名したことを発表しました。
この不死化赤芽細胞株は半永久的に増殖し、分化誘導刺激によって赤血球へ分化する性質を持ち、今後の臨床応用が期待されています。
この研究は、熊本大学の国際先端医学研究機構の三原田賢一特別招聘教授を中心として、日本赤十字の中央研究所、スウェーデンのルンド大学によって構成された研究チームによって行われました。
三原田教授は、理化学研究所で基礎特別研究員として研究した後、ルンド大学で造血幹細胞におけるストレス応答制御機構の解明の研究に従事し、熊本大学の特別招聘教授に就任しました。
2. 不足する輸血用血液
日本を含む多くの国では、輸血用の血液が慢性的に不足しています。
献血によって血液を集めても、ウイルスなどによる感染の危険性があり、特に近年のコロナウイルスの感染が広がっている状況では、献血する側の人々も、自分が感染している可能性を考えて、献血を躊躇する状況です。
そのため、輸血用血液を安全に、かつ安定的に供給するシステムの構築が求められている状況です。
細胞工学の発展に伴い、人工的に赤血球を作り出して輸血用血液に応用する方法が考えられ、基礎的な研究か続けられてきました。
研究に使うレベルではなく、輸血用血液としての要求に応えるだけの大量の人工血液を準備する方法の構築は簡単ではなく、なかなか確立できていません。
近年の幹細胞研究の拡大により、臍帯血、骨髄に含まれている造血幹細胞を用いて人工血液を生産する方法も試されていますが、人工血液生産に必要な「造血幹細胞」は、臍帯血、骨髄に含まれているとはいっても、輸血に必要なだけの赤血球を生産するための量を確保することが困難です。
つまり、造血幹細胞は、「臍帯血、骨髄に研究に必要なだけ確保するには十分であるが、臨床に使うだけの量が含まれているわけではない」、ということになります。
この状況を打破するために、赤血球になるための細胞のうち、赤血球になる直前にまで分化した細胞、「赤芽球」を不死化、細胞増殖させることによって赤血球を作る方法が試されるようになってきました。
この赤芽球を樹立し、半永久的な増殖能力を与えることによって、赤血球を作る元である細胞を常時必要量確保し、その細胞を分化誘導することによって赤血球を人工的に作成、血液の安定供給につなげる、という方法です。
今回の研究成果を発表した三原田特別招聘教授は、その研究に早くから着目し、業績を挙げてきた研究者です。
3. 遺伝子導入による形質転換で細胞株樹立
三原田特別招聘教授の行った研究を理解するためには、まず遺伝子導入による形質転換を行うときに、どのような遺伝子を使ったのかを知ることが重要です。
研究チームは、ヒトパピローマウイルスの持つ遺伝子をヒトの細胞に導入することによって形質転換を行いました。
ヒトパピローマウイルス(HPV:Human papillomavirus)は、性経験のある女性であれば、半分以上の女性が生涯で一度は感染するとされているウイルスです。
このウイルスは、子宮頸がん、肛門がん、膣がんなどのがん、そして尖圭コンジローマなどの多くの疾患の発生に関わっています。
近年増えている若い女性の子宮頸がんによって、注目されつつあるウイルスの1つです。
このヒトパピローマウイルスに感染すると、ウイルスが自然に排除されることが多いのですが、時にそのままとどまることもあります。
この状態が長期間続き、感染されたままでいると、子宮頸がんの発生になり得ると考えられています。
こういったウイルスの遺伝子を導入して大丈夫か、という疑問を持つ方も多いかと思いますが、導入するのはヒトパピローマウイルスではなく、ヒトパピローマウイルスが持つ遺伝子です。
ウイルスは、それ自体はヒトに害を及ぼすものが多いのですが、ウイルスが持つ機能の一部、そしてその機能を誘導するための遺伝子は、ヒトの医療に役立つものが少なくありません。
今回使われた遺伝子は、E6、E7というヒトパピローマウイルスの遺伝子です。
この2つの遺伝子は、子宮頸がんを発症させる高リスク型に存在する遺伝子ですが、宿主の細胞のゲノムと相互作用して宿主の細胞をがん化させる原因遺伝子の1つと考えられています。
宿主の細胞を「がん化」するということは、細胞を「不死化させる」という面も持っています。
がんはヒトにとって重大な疾患であるのですが、がん細胞のもついくつかの性質は、応用の仕方次第ではヒトに利益となる可能性があります。
そして今回、造血幹細胞から赤芽球を誘導し、ヒトパピローマウイルスのE6、E7遺伝子をその細胞に導入することによって不死化した赤芽球、「ELLU細胞」を樹立しました。
すでに増殖の研究も行われており、三原田特別招聘教授の作成したELLU細胞は、1年以上にわたって安定して増殖を続けており、不死化の性質が培養期間が長くなることによって失われることがないことが証明されました。
この研究が確立するまでには、それまで常識とされていたことについて、発想の転換をする必要がありました。
4. それまでの考えを覆した今回の研究
この研究が確立されるまでは、ヒトパピローマウイルスのE6、E7の機能を止める、という方針で研究が行われていました。
増殖中の赤芽球細胞株に分化誘導、成熟を促して赤血球にまで分化を完了させるためには、これらのE6、E7遺伝子の機能を止める必要があるとされていました。
これまで樹立された類似の細胞株には、この2つの遺伝子機能を調節するシステムが組み込まれています。
しかし、ELLU細胞では、このシステムが組み込まれていません。
つまり、従来の細胞よりも単純なシステムで不死化しようと試みられました。
結果、構築された細胞は、培養条件を変えるだけで細胞の分化誘導が起こり、誘導された細胞群は、ヘモグロビン合成、核の凝縮などの赤芽球分化過程で起こる現象が観察されました。
さらに、赤血球は細胞であるにも関わらず、核を持っていないことが大きな特徴ですが、この形質転換して誘導した細胞では、核の凝縮後、その核を脱核という核を放出する現象が見られ、まさに赤血球という形態になることが確認されました。
この段階は、「赤血球として成熟した」段階であり、この段階まで進まないと赤血球としての機能が不十分で、臨床には不向きとされています。
そして研究グループは、この分化誘導の際に、分化の到着地点が細胞ごとで異なることに注目しました。
この結果が示すものは、「ELLU細胞の性質は均一ではなく、持っている分化能力が異なる細胞が細胞群に混在している」と考察できるということです。
この考察をもとにし、ELLU細胞を、細胞群として培養を開始するのではなく、ELLU細胞1つ1つに分け、個別に増殖させる、クローニングという作業を行いました。
この実験は、1人の成人の骨髄から提供された細胞を使ったものですが、異なるクローンELLU細胞が10種類以上得られています。
つまり、1人の個体からでも、10種類以上の異なる性質を持つELLU細胞が樹立された、ということになります。
5. さらに深化する赤血球研究
ELLU細胞は、成体型のヘモグロビンを作っている成人の骨髄から樹立されています。
しかし、多くのクローンでは、胎児型のヘモグロビンを合成し、成体型のヘモグロビンを作っているクローンはむしろ少数にとどまりました。
この原因は、分化前から成体型のヘモグロビンを持つELLU細胞クローンは、分化の誘導によって細胞がすぐに壊れてしまうからということが証明されました。
この結果のみでは、ELLU細胞は実用化には不向きということになりますが、ELLU細胞クローンのうち、胎児型ヘモグロビンを持つものは、さらに培養条件を変えてやると、徐々に成体型ヘモグロビンを作るようなになる事が研究グループによって発見されました。
この変化型のELLU細胞は、分化誘導によって壊れるという割合が低く、実用化に耐えうるだけの数を確保することができそうであると報告されています。
6. 今後の研究展開について
ELLU細胞から赤血球の分化誘導には成功していますが、研究チームは「実用段階を考えると、完全な赤血球ができる割合は十分なレベルではない」としています。
今回の研究成果をもとにして、さらに効率的な赤血球への分化能力の高い細胞株、また赤血球への分化効率を高める研究が必要である、と論文で述べています。
ELLU細胞は、今後は理化学研究所のバイオリソースセンターから、所定の手続きを経れば、研究者が自由に入手が可能になる予定です。
これによって、多くの研究者、研究機関がELLU細胞を研究に用いることができるため、今後ELLU細胞の実用化へ向けての研究は加速することが期待されています。
そして、献血に頼らない輸血用血液の供給体制構築は、医療業界にとって、また我々の健康のためにも大きな進歩であり、安心できる医療の確立に大きな寄与をするものです。