1. 幹細胞で神経細胞治療の新しい方法を開発
株式会社再生医学研究は、乳歯幹細胞由来培養上清(Stem cells from human exfoliated deciduous teeth derived conditioned medium ; SHED-CM)の投与によって、脳、脊髄の炎症が抑制され、脳内の神経細胞の喪失を抑えることによって運動能力の低下を防ぐ効果が表れることを発見しました。
この知見は、アルツハイマー病、慢性期脳梗塞に効果があると予想されます。
さらに、これらの研究知見は乳歯幹細胞由来培養上清が筋萎縮性側索硬化症に効果があることを示唆しており、今後の研究展開が注目されます。
この研究を行った株式会社再生医学研究所は、上田実名古屋大学名誉教授が代表を務めるベンチャー企業で、幹細胞の培養上清を使った治療方法開発を行っている会社です。
幹細胞培養上清とは、幹細胞を培養する時に使われた培養液のことです。
幹細胞培養上清には培養中に幹細胞が分泌する物質が含まれており、この物質が様々な疾患の治療に効果があると期待されています。
乳歯幹細胞由来培養上清には、乳歯歯髄に存在する幹細胞の産生する数千種類におよぶ生理活性物質の複合物が含まれ、神経保護、軸索伸長、神経伝達を促進する作用をもつという研究結果がこれまでに発表されています。
研究チームは、乳歯幹細胞由来培養上清が神経細胞の活性化を誘導する事を発見し、実際に筋萎縮性側索硬化症の患者の治療に用い、呼吸機能の安定化、四肢と頸部の状態を改善、さらに運動可動域の改善を確認しました。
2. 筋萎縮性側索硬化症とは
筋萎縮性側索硬化症は、ALS(amyotrophic lateral sclerosis)と略されることもある疾患です。
手足、のど、舌の筋肉、そして呼吸に必要な筋肉が徐々に機能を失う疾患ですが、実際は筋肉そのものの疾患ではなく、筋肉に機能を持たせるための神経(運動ニューロン)のみが傷害を受けます。
この結果、脳からの運動指令が筋肉に伝わらなくなり、筋肉が動かなくなります。
動かなくなった筋肉は徐々に失われ、器官などの運動能力が失われます。
この疾患の特徴として、筋肉については機能が失われるものの、身体の感覚、視力、聴力、内臓機能はすべて保たれます。
日本国内では約9000人が患者として認識されており、1年間で新たにこの疾患を発症する人は、10万人当たり約1人です。
海外では、理論物理学者のホーキング博士がこの疾患であったことがよく知られています。
原因の詳細は不明ですが、神経の老化というキーワードがそのカギを握っていると考えられています。
さらに、アミノ酸の代謝異常なども仮説として挙げられています。
家族性の筋萎縮性側索硬化症では、スーパーオキシドジムスターゼ(SOD1)という酵素の遺伝子異常が約20%の患者から見つかっています。
最近では、SOD1以外にも、TDP43、FUS、optineurin、C90RF72、SQSTM1、TUBA4Aといった遺伝子の異常も患者から見つかっており、遺伝的要素からの原因解明が進みつつあります。
症状としては、話しにくくなる、食べものが飲み込みにくくなるという症状がまず表れます。
のどの筋肉に力が入らなくなると、声が出にくくなったり、水も飲み込みにくくなります。
治療方法には、疾患の進行を遅らせるリルゾールという薬を使う方法がありますが、あくまで進行を遅らせるだけであり、疾患の根治は期待できません。
他には、対症療法としてリハビリテーションなどの治療方法が用いられているのみで、呼吸が困難になると、鼻マスクによる呼吸補助、または気管切開という侵襲的な呼吸補助が必要になる場合があります。
疾患は常に進行性のため、進行を遅らせたとしても、一度発症してしまえば症状が軽くなることはありません。
筋肉の機能低下が進行し、大多数の患者は呼吸不全で死亡します。
発症してから死亡までの期間は2年から5年が一般的ですが、場合によっては10年以上生存した例もあります。
症状などには、患者による個人差が見られるため、対応がなかなか難しい疾患です。
3. この研究のポイントと扱った症例
この研究のポイントは3つあります。
- 乳歯幹細胞由来の培養上清を用いて世界ではじめて筋萎縮性側索硬化症の治療を行った。
- 呼吸機能の安定維持と痙縮による全身硬直を改善し関節の自動運動を回復した。
- 培養上清治療は幹細胞治療に代わる新しい再生医療になる可能性が示された。
筋萎縮性側索硬化症の進行性症状の中に、痙縮(Spasticity Contracture)と呼ばれる症状があります。
これは、全身の関節が固まって動かなくなってしまう症状です。
この症状が起こると、患者の生活の質、日常生活動作は大きく制限を受け、患者、その家族に大きな負担を強いる結果となります。
これまで痙縮を薬剤、細胞移植などで改善したという報告はなく、この研究での症例は、世界初の成功例となります。
研究は、68歳男性の患者に行われました。
2019年頃に運動障害を感じて受診、横浜市立大学病院脳神経内科で筋萎縮性側索硬化症と診断され、この疾患治療の拠点病院である北里大学病院神経内科に転院しました。
治療を受けていましたが、症状の進行が止まらなかったため、家族が新しい治療方法としての乳歯幹細胞由来培養上清による治療を希望したため、株式会社再生医学研究所の連携病院であるスマート・クリニック・東京に転院しました。
この時点で、呼吸機能の急速な低下、痙縮による全身の硬直が見られていました。
これは病状が急速に進行している証拠であり、患者と家族のインフォームドコンセントを行い、乳歯幹細胞由来培養上清による治療を開始しました。
培養上清の投与は点鼻投与によって行われました。
この方法は、中枢神経に直接投与するために、鼻腔内に培養上清を噴出させる方法です。
培養上清に含まれている有効成分は、分子量が比較的小さなサイトカインが中心なので、この点鼻投与によって、臭球、三叉神経、鼻粘膜を介して脳内に浸潤することが可能になります。
この場合、幹細胞を使った治療を用いると、移植された幹細胞は脳の門である血液脳関門によって中枢部に到達することができません。
しかし、培養上清中に含まれている成分は、この血液脳関門を通過することができます。
2021年1月、乳歯幹細胞由来培養上清の点鼻投与が開始され、約半年後の9月には培養上清を点滴によって投与する治療が始まりました。
その結果、まず呼吸機能の低下などの病状進行が停止、点滴治療を開始後1週間で、四肢と頸部の痙縮が緩和され、各関節の可動域が拡大していることが確認されました。
2022年に入っても、呼吸機能の改善は進み、痙縮の改善も続行しています。
関節可動域は、改善が確認できた1年前からさらに拡大し、今後は神経再生の経過をフォローする段階に入ってきています。
4. 今後の展開と課題
乳歯幹細胞は、成体の幹細胞の中でも採取が容易な幹細胞です。
抜け替わり時の乳歯から採取することが可能であり、乳歯から永久歯への生え替わりは自然な現象のため、ある意味非侵襲性な採取とも解釈できます。
そしてその幹細胞そのものを使うのではなく、この幹細胞を培養した培養上清を使う治療は、幹細胞を使う治療と異なり、様々な法的な制約を受けません。
さらに、脳内をターゲットとする場合、血液脳関門を通過できるか否かが問題となりますが、培養上清内の成分は血液脳関門を通過できるため、治療方法が容易になります。
一方で、この治療方法には今後クリアしなければならないポイントがいくつかあります。
まず、今回報告された症例は1例です。
実際にスタンダードな治療方法として認められるためには、症例数を増やす必要があります。
また、培養上清内の成分についても解析が必要です。
どの成分がどれだけ含まれている上清が有効であるかを明らかにする必要があります。
培養上清内の有効成分は、幹細胞が分泌するため、常に一定量分泌されているとは限りません。
同じ細胞でも、培養条件によっては分泌する成分、またその成分量が変化する可能性は十分あります。
今後は、この乳歯幹細胞由来培養上清の有効成分、有効成分量または有効成分濃度の基準をある程度決めるための研究も必要になるでしょう。
近年、幹細胞の治療と共に、注目されている幹細胞培養上清を使った治療ですが、今後は培養上清のクオリティを一定にするための法整備が始まるのではないかと予想されます。
法の整備と規制が始まると、治療方法の開発が遅くなる印象がありますが、実際は実用化が視野に入ってくると、法によって治療を受ける患者の安全を確保することが必要になります。
また、法整備が始まれば、それは実用化に大きく近づいたという証拠でもあります。