1. 幹細胞の培養と培養上清
我々の体内の細胞は、周囲の血管から酸素、必要な栄養素を取り入れていますが、細胞の人工的な培養の場合は血管がありません。
そのため、細胞を培養液中で培養することになります。
培養液には細胞の成長、維持に必要な栄養素などが入っています。
こういった細胞は広く行われており、がん細胞ではこの方法で研究することによって抗がん剤の開発などに有用なデータが得られてきました。
細胞の人工培養技術がなかった場合、我々の利用している医療技術、食品生産技術などはもっと違ったものになり、今ほどの便利さは得られていなかったと考えられます。
細胞の培養技術を開発する時には、培養液にどんな物質を加えて細胞に取り込ませれば、順調に成長して細胞が増殖するのかという研究が盛んに行われていました。
また、細胞に入る物質だけでなく、細胞から出てくる物質、つまり細胞が分泌する物質の研究も行われてきました。
細胞同士は、分泌する物質によって連絡を取り合い、成長、分化、分裂を同調させる、またはタイミングを調節し、器官・組織を保っています。
幹細胞の培養技術開発でも、幹細胞を順調に成長、または維持するために培養液にはどのような物質が必要か、どうすれば幹細胞を目的細胞に分化させられるのかという研究と並行して、幹細胞からどんな物質が分泌されているのか、幹細胞はどんな物質を使って細胞間の連絡を取り合っているのかについての研究が盛んに行われてきました。
その結果、幹細胞が分泌する物質の中には、様々な有用な物質が存在することが明らかになっています。
成長因子に代表される物質群は、医療技術において重要であるため、幹細胞培養上清は最近注目されています。
しかし、幹細胞が分泌する物質が有用であるのか、そうでないかはどうやって調べるのでしょうか?
幹細胞培養上清から取り出したそれらの物質を使って、1つ1つ細胞実験を行うという方法もありますが、幹細胞が分泌する物質は数百種類におよびます。
これだけ多種類の物質を調べるためには、実際の実験前にある程度分子と分子の作用から機能を予測すると研究が効率的に進みます。
また、そういった解析から思わぬ結果が得られることもあります。
現在、このための実験技術にはどんなものがあるのでしょうか?
2. プロテオミクスという技術
幹細胞から培養液中に分泌される物質の中には、多種類のタンパク質が含まれています。
このタンパク質の構造と機能に中心に多種類のタンパク質を並行して解析する手法がプロテオミクス、またはプロテオーム解析と呼ばれる技術です。
この技術を使って解析した研究の目的は様々ですが、多くの場合はタンパク質とタンパク質との相互作用を明らかにすることです。
例えば、幹細胞培養液中に存在するタンパク質の機能を知りたい場合、この技術を使えば他のタンパク質、他の細胞内に存在するタンパク質との相互作用を明らかにすることができます。
タンパク質の相互作用が明らかになると、その作用がどういった影響を細胞に与えるか?が推測しやすくなります。
その推測に従って次の実験をデザインすると、幹細胞から分泌されたタンパク質が、他のタンパク質と相互作用することによって細胞にどのような影響を与えるのかが明らかになります。
プロテオミクスは、複数の実験手法、実験技術で構成されています。
幹細胞培養上清中のタンパク質を例として説明しましょう。
多種類のタンパク質が分泌された培養上清を、まずは、それぞれのタンパク質に分離します。
タンパク質は、種類によって持っている電荷、そして大きさが違いますので2次元電気泳動という方法を使います。
中学生の時に習った関数のグラフを思い出して下さい。
Y軸とX軸がありますが、2次元電気泳動は、X軸で電荷の違い、Y軸で大きさの違いでタンパク質を分離することができます。
前もってタンパク質を光、または発色するように処理しておくと、そこからタンパク質がある部分を切り出すことができます。
切り出されたタンパク質を解析に使いますが、多くの場合はまず質量分析法、MALDI法などでによってどんな構成成分なのかが解析されます。
これによって、タンパク質の化学構造が明らかになります。
質量、化学構造の分析だけであれば、多種類のタンパク質が混ざっている状態でも、質量分析装置に直接リンクしている高速液体クロマトグラフィー(HPLC)を使って解析することも可能です。
この方法によって培養上清中のタンパク質を解析すると、含まれているタンパク質の種類が特的できます。
また、データと照合することによって、未知のタンパク質であるのかどうかまでが明らかになります。
3. プロテオミクスはデータに依存した解析方法
プロテオミクスを行うためには、タンパク質を使う必要があるため、多量の培養上清が必要である印象を受けますが、実際はそれほど多量の培養上清を必要としません。
なぜなら、培養上清に含まれているタンパク質のデータをいったん取ってしまえば、多くのタンパク質はそのデータを基にして大量に精製することが可能だからです。
明らかになったデータの中には、そのタンパク質を作るための遺伝子配列の情報もあります。
遺伝子配列の情報があれば、その配列を大腸菌などに組み入れてタンパク質を作らせることができます。
つまり、大腸菌をタンパク質を作らせる工場として使うことができるのです。
最初のステップでデータさえ得られれば、そのデータを基にしてタンパク質を大量に生産し、そのタンパク質を使って細胞への影響を解析することが可能です。
さらに、最近ではタンパク質を大量に生産しなくても、機能などを詳細に研究する事も可能です。
得られたデータからタンパク質の構造を明らかにすることによって、どんなタンパク質と相互作用するのかがかなり詳細な部分まで予測する事が現在では可能になっています。
こういったデータを使って解析する方法は、バーチャルリガンドスクリーニングなどに代表される方法で、スーパーコンピューターを使うなどしてタンパク質の性質、特徴、そのタンパク質によって起こる細胞現象を予測します。
プロテオミクスの中に、データに依存する解析方法が導入された理由としては、
- 研究にかかる時間を最小限にする。
- 医療に応用することを考えると、ある程度詳しい予測をしてから実際の実験、試験を行った法がコストが低く抑えられる。
といったものが挙げられます。
さらに、複数の研究者が共同で解析をスムーズに行うことができるように、分散処理を可能とした分散コンピューティングの技術も、プロテオミクスに大きく貢献しています。
4. プロテオミクスによる幹細胞培養上清をつかった医療の発展
このプロテオミクスの技術が、培養上清を使った医療にどのような貢献をするのかについては、その技術の有用性から計り知れない効果を与えると予想されます。
その中で、医療を受ける側が強く実感できるものとして「医療コストの軽減」が挙げられます。
プロテオミクスで培養上清から有用なタンパク質を見つけることができれば、あとはそのデータを基にして人工的にそのタンパク質を生産すればよいわけです。
つまり、培養上清中のタンパク質からデータさえ得られれば、そのタンパク質は人工的に生産が可能なので、新たに培養をして培養上清を準備する必要がないわけです。
幹細胞は、培養条件などによって分泌する物質が異なったり、量に変化が出るため、また全ての培養上清中の物質を解析できてはいませんが、いずれプロテオミクスによって明らかになっていけば、培養上清を用いた医療のコストが大きく軽減され、我々に恩恵を与えてくるでしょう。