ゲノム編集技術と iPS 細胞を組み合わせた 脳挫傷に対する新規治療法の開発

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脳機能改善のための新しいツール

慶應義塾大学医学部脳神経外科教室の戸田正博教授らの研究グループは、ヒトiPS細胞由来の神経幹細胞(NSC: Neural Stem Cell)が、損傷した脳の組織に向かって集まることを証明しました。

この新しい発見である神経幹細胞の性質は、脳機能改善のために治療に応用が可能と考えられ、再生研究がさらに進むと予想されています。

 

この研究は、イギリスの科学誌であるSTEM CELLのオンライン版に、「Neuroprotective effects of genome-edited human iPS cell-derived neural stem/progenitor cells on traumatic brain injury」として掲載されました。

このタイトルを和訳すると、「ゲノム編集iPS細胞由来神経幹細胞を用いた脳挫傷に対する遺伝子幹細胞療法」となります。

 

この研究は、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED: Japan Agency for Medical Research and Development)先端的バイオ創薬等基盤技術開発事業「ゲノム編集iPS細胞による遊走性を利用した悪性神経膠腫に対する遺伝子細胞療法の研究開発」の支援を受けて行われたものです。

研究自体は最先端の研究技術を集積したものであり、耳慣れない用語が多く使われています。

そのうちの重要な用語についてまずは解説します。

 

  • 神経幹細胞:自己複製能と多分化能を併せもった細胞で、神経、脳に重要な細胞であるニューロンやグリア細胞に分化する細胞群を供給します。
  • ゲノム編集技術:CRISPR/Cas9(クリスパー/キャス9)と呼ばれる実験技術です。

ゲノムの任意の領域を切断できる遺伝子改変ツールで、切断したい標的塩基配列に相補的な配列を含むguideRNADNA切断酵素Cas9タンパク質によってゲノム上の任意の配列を切断します。

この技術によって、ターゲット遺伝子の機能を失効させるノックアウト、ターゲット遺伝子を挿入するノックインが可能です。

 

  • プロドラッグ:投与後に生体内で代謝を受けて、薬効示すようになっている薬剤です。

今回は、プロドラッグとして5-Fluorocytosine5-FC)を使っていますが、代謝を受けると5-Fluorouracil5-FU)になる薬剤を使っています。

5-FCは抗真菌剤ですが、5-FUに変換されると殺細胞物質になります。

5-FUはこの性質を使って、抗がん剤としても使われています。

  • 融合自殺遺伝子:Yeast cytosine deaminase-uracil phosphoribosyl transferaseyCD-UPRT)として、5-FC5-FUに変換する酵素をコードしています。

 

研究の概要

現在、神経外科的処置が発達していますが、それにもかかわらず、外傷性脳損傷から機能を回復させる治療法はほとんどありません。

神経幹細胞、神経前駆細胞は、神経学的回復に寄与するものとして期待されていますが、問題も存在します。

それは、iPS細胞は臨床応用においてヒト胚由来組織や胎児由来組織の倫理的、実用的な問題を克服することができますが、iPS細胞由来細胞集団の腫瘍形成性が再生医療における安全な使用の障害となっています。

 

研究チームは、この問題の解決のために研究に着手し、今回の神経幹細胞と神経前駆細胞が外傷性脳損傷モデルマウスの損傷を受けた大脳皮質周辺に集中して存在することを明らかにしました。

モデルマウスにおける亜急性期においては、ゲノム編集を施したiPS細胞由来の神経幹細胞と神経前駆細胞を移植した治療群では、ビーム歩行試験と加速ロータロッド試験の成績が向上しました。

この試験の成績が向上するということは、大脳皮質に受けた損傷が改善していることを示しています。

 

さらに、5-FCから代謝によって変換される5-FUは、隣接する神経細胞構造を温存しながら未分化である神経幹細胞と神経前駆細胞を選択的に除去しました。

未分化な幹細胞と前駆細胞の除去が可能ということは、予定通りに分化せずに腫瘍化するリスクを持つ細胞群を除去できる、ということであり、安全な再生医療に向けて道筋が確認されました。

 

5-FCから5-FUへの変換がスムーズであれば、神経細胞構造を温存するだけでなく、未分化細胞を除去できるということで、研究グループは5-FCから5-FU2変換する酵素をコードする遺伝子、yCD-UPRTを組み込むことで、効率性と安全性を確保できます。

この神経幹細胞を治療用として使えるようになれば、脳内に損傷を受けた患者の体内にこの細胞を投与して、低下した脳機能を改善できる可能性が期待されます。

 

これまでの治療方法と現状

以前と比べると、救急医療の発達に伴って、重症脳挫傷に対する患者の救命率は向上しています。

 

しかし、生命が助かった後、重度の高次・運動機能障害が残ってしまっている患者に対して、この障害を解消するような有効な治療方法はまだ確立されていません。

神経幹細胞は早くからこの状況を打開するツールとして期待されていました。

神経幹細胞は、生着して機能を再生する可能性と、神経幹細胞が分泌する物質によって周囲の再生を促すことも期待されており、研究が進められてきました。

しかし、移植細胞数の確保や倫理的な問題があったために思うように進んでいません。

 

そこでiPS細胞を使った研究が盛んになったのですが、この再生医療には移植細胞の腫瘍化リスクがつきまといます。

その懸念を一気に解決したのが本研究であり、今後臨床試験への移行は、考えているようも早く進むのではないかと思われます。

 

さらに、これまで使われていた遺伝子導入方法では遺伝子発現が減弱しやすいことが問題とされてきました。

つまり、遺伝子を改変して新しい遺伝子をゲノム上に組み込んだとしても、遺伝子の発現が弱くなってしまうために効果が限られてしまうことが多く見受けられました。

 

そこでCRISPR/Cas9ゲノム編集技術によって恒常的に遺伝子発現可能な挿入部位を同定し、目的遺伝子を導入します。

ゲノムにこの遺伝子を導入されたiPS細胞は「治療用神経幹細胞」として扱われ、研究グループではこの細胞の安定供給の目途を立てることができています。

 

治療用神経幹細胞を移植すると何が起こるのか?

研究チームが発表した論文によると、脳挫傷モデルマウスに「治療用神経幹細胞」を移植すると、この細胞群が脳挫傷部位に集まることが確認されています。

集まった幹細胞群は、ニューロンに分化して損傷部位に生着します。

この生着によって、マウスの運動機能の改善効果が確認されています。

この運動機能改善は、神経幹細胞から分化したニューロンの効果と、神経幹細胞から分泌されている神経栄養・保護因子による神経保護作用と抗炎症作用の関与も予想されています。

 

しかしこの時点では全ての神経幹細胞が分化しているわけではありません。

分化せずに幹細胞状態の細胞群は、理論上は異常な状態にあるために腫瘍化のリスクが高いとされています。

そこでこの段階でプロドラッグである5-FCを投与すると、細胞によって代謝されて5-FUに変換され、未分化の神経幹細胞を選択的に死滅させることができます。

 

研究チームが現時点で認識している問題としては、今回使ったモデルマウスが免疫不全マウスであるということです。

免疫不全マウスではホストの自然免疫応答が欠如しているため、これが神経幹細胞にどのような影響を与えるかがまだ不透明である点が問題として挙げられます。

 

免疫系は、脳損傷後の「組織損傷の二次応答」を促進する役割を担っており、さらに神経幹細胞が免疫系の応答にどのような影響を及ぼすのかについても考えなくてはなりません。

脳卒中の研究においては、移植された神経幹細胞と神経前駆細胞が免疫細胞であるT細胞応答を抑制し、それによって炎症を抑制することが示されています。

 

やや複雑なこの部分については、研究グループでは論文内において「移植細胞による免疫調節の影響は、有益な場合もあれば有害な場合もあるため、現時点で必ずしも有益であるとは限らないと考えるべきである」と述べています。

彼らが考える最悪なケースとして、5-FC投与後に死滅する未分化細胞が、免疫系が正常なホストにおいては過剰な免疫反応を誘発し、神経幹細胞と神経前駆細胞の神経保護効果を打ち消してしまうような二次的な脳損傷を起こすことが挙げられます。

論文では、このことも踏まえてさらなる分析が必要と述べており、今後は動物実験において様々なタイプのマウスで今回と同様の試験を行っていくと予想されます。

 

 

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