iPS細胞を用いて将来は個人の特性を反映した毒性検査ができる可能性

目次

1. 毒性検査と倫理

我々は多くの化合物に囲まれて生活しています。

食品、工業製品、また製品を製造する過程で出てくるものなど、数十万種類におよぶとも言われているこのような物質は、影響の大小を問わず、人体、環境に関わっています。

このうち、人体にどのような影響があるのかどうかについてはこれまで動物実験で検査し、人体への影響を予測するという手法が用いられてきました。

動物実験は、ヒトと同じ哺乳類、マウス、ラット、サルなどが使われています。

しかし近年、動物実験に対する風当たりが強くなりつつあります。この社会の流れに沿う形で、アメリカ環境保護庁では、2035年までに哺乳類を用いた安全性研究を停止するという宣言を行いました。

安全性研究は毒性試験を含むため、毒性試験は新手法の確立を行わなければなりません。

ヒトの臓器、器官それぞれについて物質がどのような影響を与えるかを検査しなければなりませんが、人体には70種類以上の臓器があると言われ、それぞれの臓器に対しての検査システムを開発するためには膨大な時間、コストがかかります。

京都大学iPS細胞研究所(CiRA: Center for iPS Cell Research and Application, Kyoto University)の藤渕航博士、山根順子特定研究員らの研究グループは、2017年に創設された、「幹細胞を用いた化学物質リスク情報共有化コンソーシアム」(scChemRISC:Stem Cell-based Chemical Risk Information Sharing Consortiu)と協力し、iPS細胞を用いてヒトへの毒性物質を簡易に検出できるシステム、「StemPanTox(ステムパントックス)」を開発しました。

毒性には、化学的毒性、生物学的毒性、物理的毒性、放射性毒性の4種類の毒性物質が存在します。

科学の進歩によって分析技術が精密になればなるほど、化合物の持つリスクなどが問題となります。

現在では、リスクが少しでも存在すれば、それは注意対象となり試験、検討が必須となります。

化学毒性物質には、鉛、水銀、フッ化水素酸などに代表される無機物と、アルコール関連物質、ほとんどの薬品、生物由来の毒物などの有機化合物が含まれます。

また、ウラニウムのように弱い評者性物質も化学的的な毒物に分類されます。

一方で強い放射性物質、例えば物質自体から産生される電離放射線によって人体に害を与える物質、放射線中毒を与える物質は化学的毒性物質には分類されません。

こういった物質の毒性は、我々人間に大きな影響を与えるもの、影響が小さいもの、そしてすぐに影響が身体に表れるもの、蓄積することによって身体に影響を与えるもの、様々なタイプの物質があります。

こういった物質は具体的にどういう物質がどういう影響を与えるのかを明らかにしなければ、産業、薬品として使うことできません。

そのために毒性試験はもはや我々人間に必要不可欠なのですが、先に述べたように動物実験における倫理的な見地から、代替方法を使うことが社会的な流れとなっています。

そのために、日本だけでなく各国で動物実験代替法が研究されています。

培養細胞を使って3次元培養を行い、ミニ臓器を構築するなどがその代替方法の候補です。

今、その研究は激しい競争の中にあり、次々と新しい技術が生み出されています。

そしてAIを使って動物実験の代替方法を構築するという流れも盛んに行われており、今回の研究成果はAIを使った新しい毒性の影響を予測する方法です。

2. iPS細胞を使った毒性判断

scChemRISCと呼ばれている「幹細胞を用いた化学物質リスク共有化コンソーシアム」とは、未分化の幹細胞、及び品質が安定である分化細胞を用いた化合物の反応データベース開発を支援します。

これからの企業・学術機関における研究の現場でヒトの細胞へのリスク試験において評価情報の基盤を構築することにより、研究の成果を社会に還元することを目的とするコンソーシアムです。

現在は、化学物質の動物実験規制の流れから、3Rsを考慮した、ヒト細胞を使った代替リスク試験法が求められています。

3Rsとは、Replacement、Reduction、Refinementを意味します。

Reductionは、削減、つまり試験法の改良や見直しにより、評価に必要な情報の精度を欠くことなく、実験動物の数を減らすことです。

Refinementは、実験動物の苦痛を軽減することです。

動物に与える疼痛、苦痛を和らげるか除去する、そしてさらに動物福祉を向上させるように事件方法を改良することを意味します。

Replacementは実験方法、試験方法の置換です。

実験動物、試験動物を用いる試験を、これらの動物を用いない、あるいは系統発生的に下位の動物を用いる試験方法で代替することです。

系統発生的に下位の動物を使うとは、哺乳類でなく昆虫などの動物を使うということです。

scChemRISCは2009年から国のサポートを受け、未分化なヒトES細胞を用いた毒性予測系を開発し、神経毒、遺伝的・非遺伝的発がん毒で予測率が95 %から100 %に達しました。

この試験系は、未分化細胞をそのまま使用するため、試験期間は数日で行うことができます。

さらに肝臓、腎臓、心臓への毒性など、ほぼ全ての毒性物質についても有効であるとされる化合物の安全性試験系になる可能性があります。

そして現在では、試験系で使われている細胞を、ES細胞から倫理的な問題が少ないiPS細胞を使った試験系への移行を進めています。

ES細胞を使って作られたシステムは、2016年に発表されました。

しかしこのシステムは、臓器に発達する前、未分化状態のES細胞を使って成人の人体への毒性も検出できるのかどうかについてまでの保証はありませんでした。

しかし、今回の研究成果によって、ES細胞で成人への毒性が検出できることが確認され、さらにiPS細胞にも応用することが可能となりました。

3. 研究の概要

今回の研究を簡単にまとめると、以下の2点になります

  1. 幹細胞に添加するだけで、成人の身体に毒性を持つ物質をAIで検出できるシステムを開発。
  2. iPS細胞を使って、将来は個人の特性を反映した毒性検査ができる可能性。

研究グループは毒性カテゴリーを、神経毒、心毒、肝毒、腎臓における糸球体への毒、そして尿細管への毒、最後に発がん性、という6つのカテゴリーに分けました。

この6つのカテゴリーに含まれる物質、計24の化合物をES細胞に添加し、細胞内の遺伝子ネットワークの変動を解析しました。そしてこの変動をAIに学習させます。

これは転移学習(Transfer Learning)という手法で、ある領域で学習した内容、つまり学習モデルを別の領域に応用して効率的に学習させる方法です。

ES細胞で得られたデータをAIに学習することによって、iPS細胞で物質を添加した場合の影響を学習データを基に予測するということによって、iPS細胞の場合でも高い予測精度で毒性を考えることができるようになります。

ES細胞のデータを使って遺伝子変動データをAIに学習、そしてiPS細胞に物質を添加した場合の細胞内遺伝子ネットワークの変動を予測したところ、90 %以上の高い精度で予測が達成できたことが明らかになりました。

この90 %という可能性は、AUC(Area under the curve)によって算出された数字です。
臨床研究においては、ROC曲線(Receiver Operating Characteristic curve)が診断検査の有用性を検討する手法として利用されています。

AUCはいわば面積を算出する計算方法ですが、この面積が1、ということは確率論で言えば100 %ということになります。
つまりは、この面積が解析の結果0.9以上、すなわち90 %以上であるということです。

近年、数理的なモデルでこういった医学、生命科学の分野の新しい技術を開発するケースが増えています。

学術的な分野の境界線を取り払ってボーダーレスな研究を展開して新しい技術を生み出すことは、世界的に行われています。

今後、さらにこうしたボーダーレスな研究成果が増えていくと思われます。

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