幹細胞から卵子を5日間に大幅短縮|九州大学

目次

1. 卵子への分化を加速させることに成功

九州大学で生殖生物学を研究している林克彦教授の研究チームは、これまでにマウスを使って幹細胞を卵子に分化させ、通常の精子と受精させて出産させることに成功していました。しかし、幹細胞がどのような分子メカニズムで卵子に分化するのかはわかっていませんでした。つまり、ある条件にすると健常な卵子に分化するが、その過程で何が起こっているのかはわからなかったのです。

卵子への分化の過程で何が起こっているのかを解析していましたが、その研究によって、それまでは1ヶ月かかっていた幹細胞から卵子への分化が、5日間で完了できることを発見しました。さらに、同時に作成できる卵子の数も10倍以上になり、これらの研究結果は不妊治療に大きな貢献をするものと期待されています。この研究は、論文として科学誌「Nature」に掲載されました。

2. 論文の内容は?

論文の内容を大まかに解説しながら、卵子の分化について解説します。卵子のもととなる卵母細胞は、かなり特殊化された細胞であり、その成長段階で様々な遺伝子の発現が調節されます。

しかし、これらの遺伝子については断片的には明らかになっているのみで、全体像はいまだに不明のままです。そこで研究チームは、マウスの卵母細胞を成長させる実験と、遺伝子の発現を網羅的に調べる実験(スクリーニング実験)を組み合わせて卵母細胞の発達に必要な分子を特定しようとしました。

これによって特定された分子が、8つの「転写因子」です。転写因子とは、Aという遺伝子が発現する時に、DNA上のA遺伝子のそば(遺伝子的に表現すると“上流”)に存在する、A遺伝子の転写調節領域に働きかけて、A遺伝子を発現するように指令を出す分子です。この分子の遺伝子を幹細胞に組み込んで、強制的に発現させることによって、卵子への分化、そして分化速度の加速化が確認されました。

特定された8つ分子は、primordial-to-primary-follicle transition(PPT)に関わる分子です。

  • NOBOX:この分子は、以前から卵子の成熟に必要な分子として知られていました。マウスだけでなく、ブタなどでも研究されています。
  • FIGLA:この分子も卵子の成熟に必要である事が知られています。この遺伝子が欠損していると、原始卵胞を作ることができずに卵子が成熟することができません。
  • TBPL2:卵子の成熟だけでなく、成文化と生殖腺発達に重要な分子です。
  • SOHLH1:生殖細胞特異的に発現している遺伝子です。卵子だけでなく、精子にも発現している分子で、精子形成、卵形成初期に重要な役割を果たすと考えられています。
  • STAT3:日本語では「シグナル伝達兼転写活性化因子3」と呼ばれますが、この名前はほとんど使われず、Signal Transducers and Activator of Transcription 3の略称であるSTAT3の名前で呼ばれています。非常に多くの現象に関係し、脳、心臓、肝臓など、身体の組織全体で発現している重要な分子です。
  • DYNLL1:乳がん、膵臓がんの抗がん剤に対する抵抗性には、この分子が関わっているのではないかと考えられています。比較的研究の歴史が浅い分子で、今後の研究の発展が待たれている分子です。
  • SUB1:RNAに関連する分子です。
  • LHX8:身体を形成する時にも重要になる分子です。

不妊治療において、幹細胞から卵子が効率的にできることは、不妊治療のコストを下げるなどの効果が期待できます。しかし、この方法で作った卵子は、受精させても成長が途中で停止してしまいます。つまり、卵子として分化はするが、受精して個体を作るにはまだ条件が不十分ということになります。今後の研究の焦点は、この成長停止の原因の探索が柱になると考えられます。

3. 不完全な卵子なのになぜNatureに掲載されるのか?

Natureという科学誌は、1869年に創刊されたイギリスの科学誌です。現在は特に権威のある科学誌として知られており、生命科学、医学の分野では、このイギリスの「Nature」、アメリカで発行されている「Science」(1880年創刊)、同じくアメリカで発行されている「Cell」(1974年創刊)の3つの科学誌に論文を掲載することは、世界中の科学者の目標であり、3つの科学誌はまとめて「CNS」と呼ばれています。

受精後の成長が停止してしまうという不完全な卵子の研究であるのに、この論文はなぜNatureに掲載されたのでしょうか?それは、卵子に分化するまでに重要と考えられていたステップに関与する分子の特定、メカニズムを予想するための大きなヒントを発見することができたためです。そのため、この論文に掲載されている結果、そしてそれらから予想される仮説は、今後の生殖生物学にとって大きなインパクトになるためにNatureは掲載を決定したと予想されます。

8つの分子は、primordial-to-primary-follicle transitionに関わる分子、と述べましたが、これは、primordialからprimaryへ進むために重要な8つの分子、必要不可欠な分子ということを表します。この8つの分子の特定は非常に大きな功績です。また、遺伝子発現の調節メカニズムに「エピジェネティック制御」というものがありますが、彼らが発見したこのエピジェネティック制御は独特のものです。

そして、卵母細胞の細胞質は、様々な生命の問題を解決するカギとなるのですが、この卵母細胞の細胞質を研究するためには、卵母細胞を犠牲にして細胞質を実験サンプルとして確保しなければなりません。個体数が非常に多い精子とは異なり、哺乳類の卵母細胞は形成される数が非常に少ないので貴重です。また、倫理的な問題もはらみます。

この研究によって卵母細胞が人工的に、効率よく作製できれば、卵母細胞の細胞質を使った研究も大きく発展することが見込まれます。これによって解決の糸口がつかめるのではないかと期待されている疾患にミトコンドリア病があります。

4. ミトコンドリア病とは

ミトコンドリアの異常によって、酸素を使ったエネルギー生産に障害が起こる疾患です。しかし、身体全体の細胞内ミトコンドリアが異常になるわけではありません。異常が起こるミトコンドリアが存在する細胞が、どの臓器にあるのか、どの器官にあるのかによって病態が異なります。比較的エネルギー消費の大きな、脳、骨格筋、心筋の異常が症例として多くなっています。

酸素を使うエネルギー生産、つまり好気的なエネルギー生産が不十分なため、その細胞では酸素を使わない嫌気的なエネルギー産生経路がフル回転します。そのため、嫌気的エネルギー生産経路からの代謝産物、乳酸、ピルビン酸の蓄積が多くなるケースが多く見られます。

また、中には糖尿病のような病態を示す患者もおり、糖尿病の何%かはミトコンドリア病ではないかと考えられています。

ミトコンドリア内に存在する、ミトコンドリアDNAの変異が原因ではないかと考えられてきましたが、最近の研究ではミトコンドリアDNAに異常がない時でも発症する場合がある事がわかっています。つまり、ミトコンドリアDNAの異常でも起こる場合があるし、核内DNAの異常でもおこる場合があるということになります。核内DNAは父親と母親双方から受け継ぎますが、ミトコンドリアDNAはほとんど全てが、母親の卵細胞から受け継がれます。

日本では難病指定を受けており、根治法がない疾患です。表れた症状に対しての治療が中心であり、完治する方法がまだ発見されていません。今回紹介した研究の知見が、ダイレクトにこのミトコンドリア病の解決につながるとは考えにくいのですが、ミトコンドリア病を完治させる治療方法の発見、開発で行われる研究においては、今回の知見、幹細胞から卵子を分化させる方法は大きく貢献するのではないかと予想されています。

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