iPSのゲノム編集で悪性脳腫瘍の治療で、がんを巻き込んで一緒に死滅

目次

1. がん細胞を攻撃するiPS細胞

iPS細胞といえば、失われた身体の機能を回復するため、また研究の場ではiPS細胞から分化誘導した細胞を使って疾患を研究する、という目的で使われる事が多く、現在もそういった研究から次々と新しい知見が生まれています。

一方で、全く新しいiPS細胞の使い方を探索している研究グループも存在します。

そういった研究の1つが、慶應大学医学部脳神経外科の戸田正博教授らのチームが進めている研究です。

このグループが進めている研究は、iPS細胞を、がん細胞を攻撃するツールとして使うという研究です。

ターゲットとなるのは膠芽腫という種類のがんで、治療が難しく、5年生存率が約10 %と、かなり低い生存率になっています。

2. 膠芽腫(こうがしゅ)とは?

膠芽腫(こうがしゅ)は、脳に見られるがんです。

脳内のグリア細胞、主に星状膠細胞由来の悪性腫瘍のうち、分化状態が極端に未分化、そして増殖能が高いものが膠芽腫と呼ばれています。

出血を伴う場合が多く、腫瘍の内部には細胞群の壊死が見られます。

この腫瘍は、進行スピードが非常に速く、腫瘍はどんどん増大し、症状が数週間で一気に悪化することもあります。

膠芽腫に罹るのは、おおよそ45歳から79歳、中年以降に多発しており、女性と比べて男性の方が多く、男性の方が約1.5倍多くなっています。

原発性脳腫瘍全体を考えると、脳腫瘍のうち約9.0 %で、極端に多いわけではありません。

脳内で起こる場所は、前頭葉が最も多く、側頭葉、頭頂葉が次に多い発生場所になっています。

発生すると、急速に腫瘍は増大し、頭蓋内の内圧が亢進(こうしん)する症状が起きます。

この内圧亢進のため、初発症状は頭痛が多く、他の腫瘍と同様に強い頭痛、特に朝に強い頭痛が見られることが特徴です。

他には、運動麻痺、痙攣、見当識の低下という、他の脳腫瘍と同じ症状が見られます。

この膠芽腫を根治する方法は、現在はまだありません。

手術で全摘出をすれば根治に大きく近づくのですが、膠芽腫は浸潤性が高い腫瘍です。

つまり、脳全体に染みこむように腫瘍が拡大していくため、正常な脳組織との境界が曖昧になり、外科的に全てを摘出することはほぼ不可能です。

その対策として、放射線照射による放射線療法、そして抗がん剤を使う化学療法、この2つの治療方法を併用することが基本になります。

最新の治療としては、腫瘍電場療法という治療方法を取るケースもあります。

腫瘍電場療法は先進医療に区分される治療方法で、交流電場を発生させる機器を使って腫瘍細胞の細胞分裂を阻害します。

細胞分裂が止まったがん細胞は細胞死を誘導するので、この療法が効果を示すと、がん細胞が細胞死します。

現在、この治療方法が適用されるのは膠芽腫を18歳未満で発症、そして腫瘍が大脳と小脳の境目である硬膜よりも上にある場合です。

さらに、この治療の前に手術、放射線治療などの標準治療を全て行った後にこの治療方法が選択されます。

しかし、この電場療法を使ったとしても、依然として脳腫瘍の中では予後が最も悪く、最悪の部類に入ります。

1年生存率が51.6 %、3年生存率は13.1 %、そして5年生存率は7.8 %と、10 %未満となっています。

そして膠芽腫の特徴として、遠隔転移はほとんどなく、脳内にのみ転移する事が挙げられます。

3. iPS細胞出現によって可能となった治療方法

抗がん剤を使った化学療法でも膠芽腫は治療が困難ですが、これは抗がん剤を脳内、または脳の奥まで届けることができないことが原因です。

抗がん剤は、実験の際に使われる細胞培養皿の上ではがん細胞を死滅させますが、生体内では実際の主要部位に必要量届かなければ効果が出ません。

つまり、どんなに試験で効果を示した抗がん剤であっても、腫瘍のある場所に届かなければ全く意味がないのです。

戸田教授らは、脳内にある神経幹細胞が、膠芽腫の患部に向かっていることに着目しました。

神経幹細胞は、脳内の神経細胞に分化する幹細胞です。

この「膠芽腫患部になぜ神経幹細胞が向かうのか?」についてははっきりとわかっていません。

おそらく、腫瘍によって起こる炎症に対応しようとして患部に向かうのではないか、と予想されています。

戸田教授らは、この神経幹細胞を治療に応用できないか、と検討をし始めました。

この研究は、かなり前から行われており、着手当初は、「どうやって神経幹細胞を確保するか?」が問題でした。

膠芽腫が急速に拡がる脳から神経幹細胞を取り出すことはほぼ不可能で、理論的には効果が期待できていても、臨床的には不可能なアイデアだったのです。

2000年周辺からこの研究を始めていた研究グループですが、研究の進捗に手詰まり感が出ていた時期に大きな発見がありました。

それは2007年に京都大学の山中伸弥教授が作成に成功したiPS細胞です。

iPS細胞は身体の中のあらゆる細胞になる能力を持っているため、当然神経幹細胞に分化することもできます。

研究グループは、このiPS細胞を使って神経幹細胞を作成し、膠芽腫の治療に使おうと考えたのです。

しかし、神経幹細胞にしただけでは、膠芽腫の部位に向かうだけでがん細胞を攻撃するかどうか、攻撃するとしても、効果が出るくらいの攻撃なのかという問題が残りました。

そこで研究グループはiPS細胞に改良を加えて治療に使おうと考えました。

改良は、自分たちが挿入したい遺伝子を自在に挿入することができるゲノム編集技術を使って行われました。

どんな遺伝子を挿入するか、については、酵母の性質に着目しました。

酵母に中には、抗菌剤の成分を細胞内に取り込んで、抗がん剤の成分に代謝し、酵母自身は死ぬという性質があります。

この代謝に関係する遺伝子を酵母は持っているのですが、この遺伝子をiPS細胞に組み込もうと研究グループは考えました。

酵母由来のこの遺伝子をまずはiPS細胞に組み込みます。

そしてiPS細胞を神経幹細胞に分化させます。

そして、分化させた神経幹細胞を、膠芽腫患者の脳に注射します。

注射された神経幹細胞は、膠芽腫の部位めがけて脳の奥に進んでいき、患部にたどりつきます。

この場合、膠芽腫は脳の広範囲に拡がっていますので、神経幹細胞は脳全体に拡がる形になります。

注射した神経幹細胞が患部を含めた脳全体に行き渡ったところで患者は抗菌剤を点滴などで体内に注入します。

抗菌剤は血流に乗って、脳にも到達します。

脳に到達した抗菌剤は、前もってたどりついていた神経幹細胞が取り込みます。

神経幹細胞は、抗菌剤を代謝して抗がん剤成分にするために必要な分子の遺伝子が組み込まれていますので、神経幹細胞内で抗菌剤は次々と代謝され、抗がん剤成分となります。

神経幹細胞は抗がん剤成分の生成した後に死滅します。

そして作られた抗がん剤成分は膠芽腫のがん細胞を攻撃し、がん細胞も死滅するという仕組みが確立されました。

4. 臨床応用までの道

研究グループは、将来的にiPS細胞由来の神経幹細胞を使った膠芽腫治療を臨床に使うことを視野に入れて研究を進めています。

それまでには臨床試験など、いくつかのハードルを乗り越えなければなりません。

さらに、注入する神経幹細胞、そして神経幹細胞の注入後に体内に入れる抗菌剤の濃度、量も、治療のために最適化する必要あります。

とはいえ、膠芽腫の根治が見てきたということは、がん治療に大きな影響を与えるでしょう。

先に述べた予後のデータを見ると、膠芽腫は非常にやっかいな疾患であり、現在の治療では確信を持って根治できるという治療方法は存在しないと言ってもいいくらいの重大な疾患です。

研究グループでは、遅くとも2030年までには臨床での治療方法として確立したいと考えており、今後も注目していくべき研究ということができるでしょう。

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