記憶遺伝子の活性化の仕組み解明.

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ES細胞を使った脳研究で新しい発見

大阪大学大学院生命機能研究科の大学院生の渥美友梨氏、菅生紀之特任准教授、中国の深圳湾実験室・神経疾病研究所の山本亘彦客員教授の研究グループは、ヒト神経細胞の核内で学習や記憶に繋がるタンパク質とゲノムDNAの動的振舞いを1分子レベルで明らかにしました。

 

これまで学習・記憶に転写調節因子CREBと一緒に働くことが知られているCBPという分子があります。

このCBPは神経疾患の原因遺伝子である共活性化因子であることが知られていましたが、どのような動的な振る舞いをするのかはよくわかっていませんでした。

 

1分子の動態を追いかける研究手法として1分子イメージング法があります。

研究グループはこの方法を使って、刺激に応答してCREBが記憶や学習に関連する遺伝子に素早く繰り返し結合することで遺伝子発現を促進することを明らかにしました。

 

また、これにはエピジェネティックな制御を担うCBPによる事前の準備が必要であることを解明しました。これにより、学習・記憶を引き起こす仕組みのより詳細な理解につながるだけでなく、精神神経疾患の発症機構解明にも一石を投ずる成果として期待されます。

 

簡単にまとめると、記憶時に脳の神経細胞が刺激を受け取ることで、数百種類の遺伝子が活性化することが示されました。

この過程において、CREBと呼ばれるタンパク質が活性化に関与していることは知られていました。

 

CREBは、細胞内のシグナル伝達に関わり、神経細胞の活動に応じて遺伝子の転写を制御します。

特に、記憶や学習の際にCREBが活性化され、これによって数百の遺伝子が活性化されることが明らかになりました。

 

この発見は、脳の神経回路の機能や学習・記憶の生物学的メカニズムについての理解を深め、将来的には神経系の障害や記憶障害への対処法や治療法の開発に向けた基盤を提供する可能性があります。

CREBの役割が明らかになることで、脳の健康に関連する疾患に対する新たなアプローチや治療法が展開されるかもしれません。

 

この研究成果は、アメリカの科学誌「Cell Reports」に、「Repetitive CREB-DNA interactions at gene loci predetermined by CBP induce activity-dependent gene expression in human cortical neurons」というタイトルで論文として発表されました。

 

この研究を理解するための基礎知識

まず、この研究を理解するための用語を説明しましょう。

 

CREB

サイクリックAMP応答配列結合タンパク質(cAMP response element binding protein)の略で、神経系で重要な転写調節因子の一つです。

刺激を受けると、細胞内シグナル伝達によって活性化型に変化して、遺伝子発現を促進します。

神経細胞の生存、神経分化、記憶や学習といった様々な場面で重要な働きを担っています。

 

CBP

CREB結合タンパク質(CREB binding protein)の略です。

CREBと結合して、mRNA合成を行うRNAPIIをリクルートすることで、遺伝子発現を促進します。

また、ヒストンタンパク質にアセチル基を付加するヒストンアセチル化酵素としても作用し、精神遅延や知的障害を引き起こすRubinstain-Taybi症候群の原因遺伝子として知られています。

 

エピジェネティック

細胞がDNA配列を変化させずに遺伝子発現や細胞の機能を変化させる現象のことを指します。

DNAに直接メチル基が付加されるDNAメチル化と、DNAが巻き付いているヒストンタンパク質が様々な修飾を受けるヒストン修飾にわけられます。

エピジェネティックな修飾がタンパク質とDNAの結合を変化させることで、遺伝子発現を調整することが知られており、この変化は環境や経験によって調整され、個体の発達や健康に影響を及ぼすと考えられている。

 

RNAPII

RNAポリメラーゼII(RNA polymerase II)の略です。

DNAを鋳型としてmRNA合成を行う酵素の一つであり、遺伝子発現の初期段階で必須の役割を持ちます。

RNAPIIが活性化型になることで、mRNA合成の開始、伸長、停止といったプロセスが制御されています。

 

ヒストンアセチル化

ヒストン修飾の一つで、アセチル基がヒストンタンパク質に付加される現象を指します。

これによってDNAとヒストンタンパク質の電気的相互作用が弱まり、DNAに結合しやすい状態になることで、遺伝子発現を促進する。

 

研究の背景と詳細

ちょっと細かく研究の内容を見てみましょう。

まず、今回の研究成果のポイントは以下のようになります。

 

  1. 学習・記憶に重要な遺伝子発現を促進するCREBCBPタンパク質の振る舞いをヒト神経細胞で可視化することに成功しました。

 

  1. 神経活動が起こると、CBPによって準備された学習・記憶に関連する遺伝子にCREBが繰り返し結合することでその遺伝子発現が促進されることを明らかにしました。

 

  1. 学習・記憶が起こる仕組みや精神神経疾患の病態理解に期待が高まります。

 

脳の研究は、複雑な脳が相手ですので、関与する遺伝子、タンパク質の種類は膨大になり、複雑にそれらが絡み合っている状況を忍耐強く解析しなければなりません。

 

脳の神経細胞が刺激を受け取ると、数百種類もの遺伝子が活性化することによって、神経回路の形成・再編が誘導されます。

この段階で、複雑なネットワークは様々な方向にシグナルを送ります。

 

この遺伝子発現からネットワークの活性化は非常に重要なステップでアリ、この過程の異常は自閉症、統合失調症といった精神神経疾患とも関連しており、その仕組みを明らかにすることは疾患の病態理解において重要な課題となっています。

 

CREBは、神経細胞の生存、分化、シナプス可塑性などに必要とされるタンパク質で、刺激が入るとCREBが特定のDNA配列と結合することで学習・記憶に関連した遺伝子発現を促進します。

さらに、CREBCBPがタンパク質複合体を形成することによって、RNAポリメラーゼII(RNAPII)をリクルートして遺伝子発現を誘導します。

 

また、CBPはヒストンアセチル化酵素でもあり、エピジェネティックな制御にも関与していることが予想されています。

これまで、生化学的手法を用いてCREBの活性化経路や標的遺伝子が調べられてきましたが、遺伝子発現を促進するための時空間的な分子動態については知られていませんでした。

 

また、これらこれらの分子メカニズムの研究は主としてげっ歯類を用いて実施されてきたため、医療、臨床への応用を視野に入れた病態理解に向けては、ヒト神経細胞を用いた研究が必須です。

 

研究の内容

先に述べた研究グループでは、これらの課題を克服するにはやや実験技術などに不安な点があったため、研究グループはVIB-KU(ベルギー)のPierre Vanderhaeghen教授、岩田亮平研究員のグループと協力してヒトES細胞から分化させた大脳皮質神経細胞の培養系を確立しました。

 

この培養系を使った核の一部分のみを照らす斜光照明顕微鏡を用いて蛍光標識したCREBCBP1分子レベルで可視化して時空間的な動態を入念に解析しました。

さらに、東京工業大学の木村宏教授のグループと協力して、CREBRNAPIIの同時イメージングの条件検討を行い、イメージングを実施しました。

 

その結果、神経活動が起こる前から神経細胞の核ではCBPによってヒストンアセチル化された微小領域が点在しており、そこには神経活動が起こったときに素早く遺伝子発現できるように学習・記憶関連遺伝子が準備されることが明らかになりました。

 

刺激が入るとホットスポットとして、CREBCBPと共にその遺伝子のDNA配列に選択的に数秒程度の結合を繰り返し、それにより活性化型RNAPIIが集積することで遺伝子発現が開始されます。

研究グループは、この2つのステップが学習・記憶に繋がる分子の振る舞いであることを明らかにしました。

 

本研究成果が社会に与える影響

げっ歯類などの実験動物を使ってヒトの病態を正確に再現することは、精神試験疾患においては非常に困難です。

 

今回用いたES細胞、そしてiPS細胞の出現でこれらの病態を再現して医療に応用する研究が盛んになってきましたが、分化誘導、培養系の確立などの条件検討の難易度が高いことが課題です。

またこういった研究では、病態、つまり細胞を観察するための技術も重要であり、それらは「イメージング技術」として研究だけでなく、技術開発を行う企業などが昨今力を入れている領域になります。

 

がんなどと比べると、精神疾患の研究は脳という複雑な組織が相手であるがゆえに進歩がそれほど早くないという印象を受けますが、ES細胞、iPS細胞の出現はこの研究の進歩を確実に加速させており、今後も今回の研究のような成果が出ることが期待できます。

 

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