1. 幹細胞の分化メカニズムを知るために
ES細胞、iPS細胞などの幹細胞が出現し、生命科学の研究、そして医療は大きく変わりました。
これまで、臓器、器官の機能不全による疾患では、「移植」を選択することが多く、人工的な臓器、器官を準備できない場合は、それらを提供するドナーの存在が不可欠でした。
しかし、幹細胞から目的の臓器、器官を構成する細胞を分化誘導することが可能となりつつある今、人工的な臓器、器官はこれまでの機械的、工業的なものから、人間が細胞をコントロールして、生体内のものとほぼ同じものを作り上げる時代になってきています。
この幹細胞からの分化誘導を行うためには、もともと体内にある幹細胞からどのようにして細胞が分化誘導されているかを知ることが重要です。
脳は非常に複雑であり、構成する細胞群の誘導がどのように行われているかを知ること自体がかなりの困難を伴います。
そのため、脳の研究は分子生物学の発展に伴って大きく進んだとはいえ、まだ不明なことが多いのが現状です。
こういった研究は動物が受精卵からどう発生して、脳を構築していくかを研究材料として用いる場合が多いのですが、今回、九州大学大学医学研究院の堅田明子助教と中島欽一教授らで構成される研究グループは、脳を構成するニューロンとアストロサイトの作り分けがどのように行われているかを明らかにしました。
この研究は、脳の細胞を人工的に作成して医療に用いる時に大きな役割を果たす結果を含んでおり、注目を集めています。
脳は、その構造の複雑さから、再生医療の方法が確立することが困難と考えられてきました。
実際に、人間以外の哺乳類、マウス、ラットなどの研究からも、脳の構築、機能は非常に複雑で、多くの論文が発表されていますが、全体のどのくらいを解明したのかさえわからない状況にあります。
そのような状況で発表されたこの論文は、脳の解明を大きく進める研究成果と考えられています。
2. エピジェネティックスというメカニズム
この研究のカギとなるメカニズムは、「エピジェネティック」または「エピゲノム」と呼ばれるメカニズムです。
遺伝子の発現は、転写因子と呼ばれる分子によって制御されています。
転写因子は、それぞれの転写因子ごとに結合する配列が異なり、自分が結合できる遺伝子の配列を見つけて結合し、そばにある遺伝子の発現を誘導、または抑制します。
この転写因子の研究は古くから行われてきましたが、異なる転写因子同士が結合することによって、多様性のある遺伝子発現誘導を行っていることが明らかになっています。
また、遺伝子自身も化学修飾によって、遺伝子発現誘導を受けやすくなったり、受けにくくなったりするシステムを持っています。
遺伝子の化学修飾は、遺伝子が巻き付いているクロマチンというタンパク質が主な標的であり、メチル化、あるいはアセチル化という化学的修飾をクロマチンが受けることによって、その遺伝子が発現誘導されるのかされないのかが決まります。
このメカニズムが脳の発生に重要であることを明らかにしたのが今回の研究です。
3. アストロサイトとニューロン
脳などの神経系は、神経細胞と神経細胞ではない細胞で構成されています。
この神経細胞ではない細胞の総称がグリア細胞で、アストロサイトはそのグリア細胞の1つです。
アストロサイトは、極めて複雑な突起をもつ細胞で、血液脳関門の閉鎖機能にも関与する重要な細胞です。
主な機能としては、血液脳関門の閉鎖の他に、ニューロンネットワークの構造を支える、物質輸送を介して周辺条件を調節するなどがあります。
アストロサイトが属するグリア細胞の数は、脳においては神経細胞の50倍にも達すると言われており、脳を構造的に維持するためには重要な細胞です。
そしてニューロンと呼ばれるのが神経細胞です。
基本的な機能は、神経細胞に外界から刺激が破行ってきた場合に、活動電位を発生させて他の細胞に情報を伝達します。
ニューロン、神経細胞の構造は大きく3つの部分に分けられ、細胞核を持つ細胞体、他の細胞からの情報入力を受ける樹状突起、そして他の細胞に情報を出力するための軸索からなります。
4. 脳はどのように作られるか?
受精卵から発生が始まり、胎児を経て出生する時には、脳のかなりの部分は構築されています。
出生後も脳は発達をしますが、構造的、機能的にも胎児の時期の発生は当然重要です。
この発生の時には神経幹細胞から細胞が分化誘導されて作られ、脳を構成する細胞を供給するのですが、異なる多種多様な細胞を、発生の適切なタイミングで決まった数を作らなければなりません。
発生時期の神経幹細胞は、神経細胞であるニューロンと、アストロサイトを作ることはわかっていましたが、分化能の変換メカニズムはわかっていませんでした。
研究グループは、発生時期の神経幹細胞が、細胞内でエピジェネティックな制御によって、正しいタイミングで必要な細胞を必要な数作っていることを明らかにしました。
神経幹細胞内にある骨形成因子は分化誘導因子の1つですが、この1種類の骨形成因子がニューロンとアストロサイト、両方を誘導する事がわかっていました。
しかし、発生時期によっては、ニューロンは作られてもアストロサイトは作られなかったり、アストロサイトは作られてもニューロンが作られない現象が見られます。
この骨形成因子による作り分けは、骨形成因子による制御だけでなく、遺伝子そのものがそうなるように制御していることがこの研究で明らかになりました。
骨形成因子が遺伝子上に結合する時、結合しやすい環境である部分と、結合しにくい環境の部分があります。
遺伝子は、結合しやすい場所と結合しにくい場所を自分で調節し、骨形成因子によって誘導して欲しい遺伝子の周辺を結合しやすく、とりあえずしばらくは発現が必要ない遺伝子の周辺は結合しにくくしているわけです。
この調節は遺伝子が巻き付いているクロマチンをターゲットとして行われ、クロマチンがメチル化しているかアセチル化しているか、また脱アセチル化、脱メチル化を誘導する酵素を使い、細かな制御を行っていることがこの研究で明らかになっています。
遺伝子発現を網羅的に調べてみると、ニューロン関連遺伝子とアストロサイト関連遺伝子の発現する時期が明らかに異なり、その発現プロファイルと遺伝子のクロマチンの状況を解析すると、かなり精密に制御されていることがわかりました。
さらに、骨形成因子自身も、脳の発生と同調して、自分が結合するタンパク質のパートナーを変えることによって違う遺伝子の調節を行うなどの制御を行っている結果も出ています。
つまり、遺伝子発現を調節する側と、調節される側がタイミングを合わせて精密な調節を行い、その結果われわれの持つ複雑な脳を作っていることがこの研究で明らかになりました。
5. 神経幹細胞の研究は今後どうなるのか?
神経幹細胞を使った人工的な分化誘導は、多くの研究機関で研究されており、近年研究成果が次々と発表されています。
しかし、今回の研究にあるように、実際の神経幹細胞は複雑、かつ精密な調節を自分の細胞内で行い、我々の持つ脳を作り上げています。
こういったメカニズムを人工的に再現する技術は、まだ我々は手にしていません。
発生時期によって、ニューロンとアストロサイトを作り、数のバランスを正常に保つことは人間にとって非常に重要で、この数のバランスの異常が、種々の発達障害、精神疾患に結びついてしまうことがわかってきています。
神経幹細胞の分化誘導を研究することは、こういった障害、疾患の原因を明らかにし、治療方法を確立する上でも非常に重要です。
分子生物学的な解析方法の発達により、こうした障害、疾患の原因が分子メカニズムレベルでわかってきており、次の段階としてそれをどう修復していくか?が今後の研究の大きな目標になると考えられています。
また、外界からのなんらかの刺激によって脳が損傷した場合に、神経幹細胞を使って脳を修復し、以前と同じ生活の質を維持するという目的の治療も確立が望まれているものであり、一般に言われる「普通の生活」を送れるまでに脳を修復するという治療方法確立のための研究、開発が盛んに行われています。
発達障害、精神疾患などは今後我々が向き合わなければならない障害、疾患ですが、先天的という理由で諦めていた治療も、今後の研究展開次第では、神経幹細胞、またはiPS細胞を使って治療が可能になるかもしれません。