神経を生み出す神経幹細胞の数の決定に関与する遺伝子を特定

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神経を生み出す神経幹細胞の数の決定に関与する遺伝子を特定

茨城大学大学院理工学研究科・基礎自然科学野の研究グループは、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を用いて、神経を生み出す神経幹細胞の数の決定に関与する遺伝子を特定しました。

この研究は鈴木匠准教授の研究室で行われ、2022年3月に卒業した武澤彩氏、2024年3月に大学院を修了した蔡源章氏、そして学部学生の廣瀬弥玲氏、大学院理工学研究科の秋庭知佳氏によって積み重ねられたデータの解析によって行われました。

 

正常な脳を構築するためには、適正な量の神経細胞の供給が必要であり、多すぎても少なすぎても問題を起こします。

これらの神経細胞は神経幹細胞から生み出されているため、神経幹細胞の数によって最終的な神経細胞の供給量が決まっています。

 

神経幹細胞は神経上皮細胞に由来する事から、神経上皮細胞数は神経幹細胞数を反映していると考えられています。

神経上皮細胞が十分量に達すると神経幹細胞への分化が誘導されますが、この分化誘導の時期が明らかになっていませんでした。

 

今回の研究で、研究グループは、Daughterlessと呼ばれる遺伝子が神経上皮細胞から神経幹細胞への分化のタイミングを制御していることを明らかにしました。

これらの遺伝子は、マウス等の哺乳類にも存在するため、哺乳類でも類似した分子機構が機能して神経幹細胞の数を決定している可能性が考えられます。

研究成果は、2024年9月16日付でイギリスの学術誌「Development」に「bHLH family proteins control the timing and completion of transition from neuroepithelial cells into neural stem cells」というタイトルで掲載されました。

 

神経幹細胞と神経上皮細胞の関係

神経幹細胞と神経上皮細胞は、神経系の発生において密接に関連した細胞タイプです。それぞれの役割と関係についてヒトを例にして説明します。

 

まず神経上皮細胞 (neuroepithelial cells)は、胚発生初期の神経管を構成する細胞です。

この細胞は未分化であり、神経系の発生における最初期の前駆細胞として機能します。

神経上皮細胞という名前から、すでに分化した細胞に思われがちですが、この神経上皮細胞の段階では、まだ分化が完了しておらず、幹細胞的な細胞として認識されています。

この神経上皮細胞は高い増殖能を持ち、神経幹細胞や他の前駆細胞に分化する基盤となります。

 

次に神経幹細胞は、自己複製能と分化能を持つ細胞で、神経系の発生や再生において中心的な役割を果たします。

神経上皮細胞から分化することが知られており、神経幹細胞から神経上皮細胞が分化するのではなく、神経上皮細胞が神経幹細胞に分化する点は理解に注意が必要です。

 

この神経幹細胞は、ニューロン(神経細胞)、アストロサイト(グリア細胞の一種)、オリゴデンドロサイト(ミエリン形成を担うグリア細胞)の3つに分化する能力を持っています。

 

神経幹細胞と神経上皮細胞の関係は、発生段階に依存します。

 

まず初期発生段階においては、神経上皮細胞は神経管を構成する際に高い増殖活性を示します。

この段階では、神経上皮細胞自体が未分化な神経幹細胞に近い性質を持っています。

 

中期発生段階になると、神経上皮細胞の一部が分化し、特化した神経幹細胞になります。

神経幹細胞は、神経前駆細胞 (neural progenitor cells) を経て、ニューロンやグリア細胞を生み出します。

 

最終段階の後期発生段階と成人期には、神経上皮細胞は発生終了とともに減少し、神経幹細胞が主に残ります。

成人期では、神経幹細胞は特定の脳領域(例:海馬や脳室下帯)に局在し、再生の役割を果たします。

 

神経上皮細胞は、神経幹細胞の前駆細胞として機能します。発生の進行に伴い、神経上皮細胞が神経幹細胞に分化し、神経系を構成するさまざまな細胞を生み出す源となるのです。この流れは神経系の発生や再生の基本メカニズムにおいて重要です。

 

なぜキイロショウジョウバエを使ったのか?

この研究では実験動物にキイロショウジョウバエを使っています。

キイロショウジョウバエはDrosophila melanogasterという学名の方が研究社会では知られており、多くの発見をもたらした実験動物として知られています。

 

キイロショウジョウバエは、遺伝学や発生生物学をはじめとするさまざまな研究分野で広く利用されており、その使用には多くの意義があり、以下のポイントにまとめられます。

 

まずは扱いやすさです。

キイロショウジョウバエのライフサイクルは約10日(25°C条件下)と短く、迅速な世代交代が可能です。

そして養育コストが低く、限られたスペースで多くの個体を育てられるため、大規模な研究に適しています。

 

さらに分子生物学的にも優れた実験動物として人気があります。

キイロショウジョウバエのゲノムは2000年に解読されており、遺伝子のさらなる機能解析が進んでいます。

そして古くから飛翔能力、体色、目の形状などの変異体が豊富に存在し、特定の遺伝子の役割を調べるのに役立ちます。

 

近年の遺伝子操作技術、 RNA干渉 (RNAi)、CRISPR-Cas9、GAL4/UASシステムなどにも幅広く対応しており、これらの遺伝子操作技術が確立され、特定の遺伝子の機能を操作することが容易です。

 

また、キイロショウジョウバエの遺伝子の約75%が、ヒトに関連する疾患遺伝子と相同であることが知られています。

これを応用して、神経変性疾患(例:アルツハイマー病、パーキンソン病)、がん、代謝疾患(糖尿病など)のモデルとして利用されています。

 

発生生物学においては、発生生物学者の多くが一度はキイロショウジョウバエを使った事があるというレベルで研究に使われています。

 

ショウジョウバエの胚発生過程は良く研究されており、発生段階ごとの詳細な知見があります。

例えばホメオティック遺伝子の研究により、体節形成や器官特異性の理解が深まりました。

そして今回の研究にも関係しますが、キイロショウジョウバエは比較的単純な神経系を持つため、神経回路と行動との関係を研究するのに適しています。

 

最後に、倫理的・法的制約が少ないということも広く使われる理由です。

哺乳類とは異なり、昆虫であるキイロショウジョウバエを用いた実験は、動物福祉や倫理的規制が比較的少なく、柔軟に実験をデザインできます。

 

このようにキイロショウジョウバエは、短いライフサイクル、豊富な遺伝学ツール、ヒトとの遺伝的類似性を兼ね備えた実験モデルであり、遺伝学、生物学、医学の基礎研究や応用研究に欠かせない存在です。

その特性により、科学的発見の加速とヒト疾患の理解に大きく貢献しています。

 

Daughterlessとはどんな遺伝子か?

Daughterlessは、キイロショウジョウバエにおいて重要な転写因子をコードする遺伝子です。

この遺伝子は、発生過程での細胞分化や性決定に関与しており、特定の遺伝子ネットワークで中心的な役割を果たします。

 

タンパク質ファミリーは bHLH (basic Helix-Loop-Helix) 転写因子に属し、、他のbHLHタンパク質とヘテロ二量体を形成し、特定のDNA配列(E-box)に結合することで遺伝子発現を調節します。

 

Daughterlessは、神経幹細胞(ニューロブラスト)の形成に必要であることがよく知られています。

ショウジョウバエ胚の発生過程で、Daughterlessは他のbHLH因子(例: achaeteやscute)と協働し、神経前駆細胞の分化を誘導します。

 

また、 Daughterlessは、性決定カスケードの上流で重要な役割を果たします。

ショウジョウバエでは、Sex-lethal (Sxl)遺伝子の発現を制御することで、雌の性決定に関与します。

さらにDaughterlessは他の因子(SisA, SisB, SisCなど)とともに、Sxl遺伝子の転写を活性化する複合体を形成します。

Daughterlessは、その他にも筋肉やその他の細胞型の分化プロセスにも関与しています。

 

Daughterlessという名前は、この遺伝子の変異体がもたらす表現型に由来します。

この表現型に由来する遺伝子命名は、キイロショウジョウバエをはじめとした昆虫類でよく見られる命名方法です。

Daughterless遺伝子が機能しない場合、雌のハエが子孫を産むことができなくなります。

これは、性決定や細胞分化に必要な役割が果たされないためです。

このことから、Daughter(娘)-less(失う、欠損など)、という2つの単語を組み合わせてDaughterlessと命名されました。

 

Achaete-scute複合体 (AS-C)は神経分化に関与するbHLH遺伝子群ですが、Daughterlessと二量体を形成し、機能を発揮します。

そしてSex-lethal (Sxl)は雌の性決定カスケードで重要な役割を担う遺伝子ですが、DaughterlessがSxlの転写活性化に関与します。

 

これらはキイロショウジョウバエで得られた知見であり、Daughterlessはキイロショウジョウバエの発生生物学と遺伝学のモデルとして広く研究されています。

bHLH転写因子の基本的な働きを理解することは、ヒトを含む他の生物での神経分化や発生過程の理解にもつながるため、疾患の研究からも注目されています。

 

特に、ピット-ホプキンス症候群の発症メカニズムの解明にはこのDaughterlessの解析が重要と考えられています。

 

本研究の知見が貢献するピット-ホプキンス症候群の解明

ピット-ホプキンス症候群(Pitt-Hopkins Syndrome, PTHS)は、主に知的障害や発達遅滞、呼吸異常、特徴的な顔貌を特徴とするまれな遺伝性疾患です。

この症候群は、TCF4遺伝子の変異によって引き起こされます。

 

ピット-ホプキンス症候群は、第18番染色体上にあるTCF4遺伝子(Transcription Factor 4)の異常によって生じます。

TCF4遺伝子は、転写因子をコードし、神経発達や脳の機能に重要な役割を果たしています。

この遺伝子の変異により、神経細胞の発達やシナプス形成における重要な遺伝子発現の調節が障害されます。

 

主な特徴としては以下のものが挙げられます。

まずは知的障害と発達遅滞です。

中等度から重度の知的障害を伴い、言語発達が著しく遅れ、多くの患者で言葉を話す能力が制限されるか、完全に欠如します。

 

呼吸異常も特徴の1つです。

過呼吸(呼吸が異常に速くなる)と呼吸停止(無呼吸)が断続的に発生し、この現象は特に幼少期に多く見られます。

 

その他、多動性や注意欠陥(ADHD様症状)、自閉症スペクトラム障害(ASD)に類似した特性を示すことがあります。

さらに運動発達が遅れ、座る、立つ、歩くといった基本的な運動の達成が遅れることがあります。

 

ピット-ホプキンス症候群には現在、根本的な治療法はありません。

ただし、症状の管理と生活の質の向上を目的とした支援が行われます。

 

ピット-ホプキンス症候群は非常にまれで、正確な有病率は不明ですが、世界中で少数の症例が報告されています。

– 診断技術の向上により、今後さらなる症例の特定が期待されています。

 

ピット-ホプキンス症候群は、TCF4遺伝子の変異によるまれな遺伝性疾患で、発達遅滞、知的障害、特徴的な顔貌、呼吸異常を主な特徴とします。

現在の治療は対症療法が中心であり、包括的な支援が患者とその家族にとって重要です。

今回の研究成果は、いずれこのピット-ホプキンス症候群の解明に役立つ結果として期待ができるでしょう。

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