慶應義塾大、慢性期脊髄損傷に対する細胞移植の治療効果を高めることに成功

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幹細胞治療との併用治療で効果が高まる

慶應義塾大学医学部生理学教室の岡野栄之教授、整形外科学教室の中村雅也教授、名越慈人専任講師、柴田峻宏助教は、同大学リハビリテーション医学教室の田代祥一非常勤講師らの研究グループと共に幹細胞治療とリハビリテーションを組み合わせることにより、脊髄損傷の回復が良好となることを明らかにしました。

 

この研究は、慢性期の脊髄損傷モデルマウスにヒト iPS 細胞由来神経幹/前駆細胞を 移植し、ほとんどのスポーツジムに設置してあるトレッドミルを使った歩行訓練によるリハビリテーションを併用し、運動機能などの回復を観察するものです。

トレッドミルは強度漸増型で、この研究結果では運動機能や組織学的所見を回復させることに成功しています。

 

これまで岡野教授らのグループは亜急性期の脊髄損傷に対するヒト iPS 細胞由来神経幹/前駆 細胞移植の有効性を報告してきました。

しかし治療感受性が乏しい慢性期の脊髄損傷への幹細胞移植の治療効果は限定的でした。

この治療方法に対して、薬剤治療、またはリハビリテーションなどを併用してみたらどうかというアイデアは指摘されていましたが、今回その併用効果が証明されました。

 

慢性期脊髄損傷の難しさ

脊髄は、頚椎、胸椎、腰椎、仙椎に大きく分けることができます。

脊髄損傷は、これらのどの部分が損傷するかによって症状が異なります。

頚椎部分が損傷すると、呼吸に使われる筋肉の麻痺、四肢部分または全筋肉の麻痺が見られることが多く、この場合人工呼吸器を使用しないと生命維持が難しくなります。

 

胸椎ではさらに細かい部分によって身体の麻痺の状態が異なりますが、ほとんどの場合は身体のいずれかの部分が麻痺、運動機能の障害を受けます。

腰椎が損傷すると、股関節、足などの麻痺が出ることが多く、軽度でも筋力の低下が見られます。

 

さらに脊髄損傷後の時期によっても異なります。

これは疾病の共通の分類方法で、急性期、回復期、慢性期に分けることができます。

 

まず急性期とは、「病気になり始めた時期」または「症状が表れ始めた時期」を指します。

この時期は疾病やケガによる症状が急激に表れます。

急性期は経過が非常に早く、経時的に状況が変化していきます。

1時間くらいでも症状が大きく変わることがあり、予断を許さない段階です。

 

急性期は容態が危機的な状況なのですが、この急性期を乗り越えると回復期に入ります。

この時期は身体の機能の回復の時期ですが、多くの疾病では合併症のリスクが残っています。

脊髄損傷の場合は、ヒトの身体が自ら回復することができる部分の損傷が回復する時期なのですが、神経は損傷を受けた後に回復が見込めない部分が多いため、脊髄損傷の患者は回復期であっても身体の麻痺、運動機能の障害が残ることが非常に多く見られます。

 

そして慢性期は症状が比較的安定している時期です。

多くの疾病では再発の予防や体力の維持を目指し、長期にわたる治療を行います。

良化しつつある時期なのですが、慢性期は、生活習慣病などで入退院を繰り返す患者さんも多いステージです。

 

岡野教授らの研究グループがこれまでiPS 細胞由来神経幹/前駆細胞を用いた細胞移植治療の研究で示してきた研究成果は、主に亜急性期の脊髄損傷動物モデルを使ったもので、亜急性期においては有効性が示されてきました。

 

しかし脊髄損傷は受傷から時間がそれほど経過していない急性期、亜急性期と、時間が経過した慢性期では治療感受性が大きく異なります。

つまり、同じ治療でも急性期・亜急性期と慢性期では治療効果が異なります。

これまではiPS 細胞由来神経幹/前駆細胞移植も慢性期脊髄損傷に対しては治療効果が限定でした。

 

リハビリテーションの重要性

慢性期脊髄損傷におけるiPS 細胞由来神経幹/前駆細胞移植治療では、リハビリテーションとの併用が効果的ではないかという考えは以前よりありましたが、どのようなリハビリテーションが有効かははっきりしていませんでした。

 

iPS細胞移植治療によって移植された細胞は、体内で生存できた細胞が成熟ニューロンに分化します。

この分化する細胞が多ければ多いほど治療効果は期待できます。

そして患者の組織内では、移植され、分化した細胞によって神経繊維が再生されなければなりません。

さらに再生した神経繊維が神経活動性を持たないと運動機能などの回復は不可能です。

 

移植した細胞の成熟ニューロンへの文化、患者組織内での神経繊維再生とその神経活動性の亢進がシナプス相互作用を促し、運動機能の回復につながります。

これを効果的に誘導できるリハビリテーションの方法を研究グループは模索していました。

 

リハビリテーション治療の最適化に向けて、研究グループはこれまでに脊髄損傷モデルマウスに対する強度漸増型のトレッドミル歩行訓練を開発しました。

この方法は、慢性期の腰椎において神経栄養因子の発現と神経活動性の上昇を誘導する事が明らかになっていました。

 

そして今回の研究では、脊髄損傷の慢性期モデルマウスに臨床研究に使える品質水準のヒトiPS 細胞由来 神経幹/前駆細胞を移植し、強度漸増型のトレッドミル歩行訓練による併用治療を試み、効果を検証しました。

 

この結果、移植されたiPS細胞由来の神経幹細胞、神経前駆細胞の生存率が向上し、成熟ニューロンへの分化が促進されることが観察されました。

さらに、損傷部を含む脊髄組織内において神経栄養因子がより多く発現し、脊髄内の神経活動性が亢進、縫線核脊髄路神経線維の増加が確認できました。

縫線核脊髄路神経線維は、脳と脊髄内の神経伝導路の一つで、セロトニンを主な伝達物質としており、マウスでは歩行パターンの改善に関与すると報告されています。

そしてこの結果、iPS細胞移植とリハビリテーションの併用治療は、対照実験のiPS細胞移植のみの治療と比べて高い運動機能回復を示しました。

 

実験の詳細な流れ

実験の詳細を説明しましょう。

用いた実験動物は、脊髄圧座損傷マウスで、損傷後49日目にヒトiPS細胞由来神経幹細胞、神経前駆細胞を移植しました。

この移植した時期は慢性期です。

 

ヒトiPS細胞由来神経幹細胞、神経前駆細胞を移植してから3日後に強度漸増型トレッドミル歩行訓練を開始しました。

対照群としては歩行訓練を行わずに細胞移植のみを行ったマウスを設定し、歩行訓練は8週間連続して行いました。

この結果、以下の3つのことが明らかになりました。

 

  1. 移植したヒトiPS細胞由来神経幹細胞、神経前駆細胞の生存率向上と成熟ニューロンに分化する細胞数の増加。

さらに腰髄において神経活動性の亢進が見られ、運動機能回復に重要であるセロトニン陽性神経繊維の増加も確認できました。

  1. 脊髄組織内における神経栄養因子タンパク質、であるBDNF(Brain-Derived Neurotrophic Factor、脳由来神経栄養因子)とNT-3(Neurotrophin-3、ニューロトロフィン3)の発現が増加しました。
  2. 細胞移植と歩行訓練を併用したマウス群は、運動機能が有意に改善しました。

 

医学分野の複合領域研究の重要性

この研究成果は、医学分野における複合領域研究の重要性を示しています。

iPS細胞、幹細胞を使って研究する分子生物学的な分野と、運動機能の回復、改善を目的とするリハビリテーション分野の融合によって今回の研究成果は成立しています。

 

分子メカニズムと身体の機能の関連については、昔から遺伝子操作のしやすいショウジョウバエなどの昆虫、そして遺伝子操作の技術が進歩してからはマウス、ラットで行われてきました。

しかし、運動機能の改善に代表される変化は、分子生物学的な研究を行った研究者、つまり分子生物学の研究者がアウトプットとして行うケースが多く、運動機能を変化させるための運動、つまりリハビリテーションに該当する部分の研究との融合はそれほど盛んではありませんでした。

 

しかしここ10年で、様々な分野での複合領域的研究が大きな成果を出していることを受けて、医学分野でも今回のような複合領域研究が活発になっています。

この動きは、再生医療の効果が加速的に高まる可能性を秘めており、各研究機関では機関内共同研究を積極的に推し進める動きが顕著になっています。

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