1. 人工的に生命を作るということと生命倫理
イギリスのケンブリッジ大学のマグダレナ・ゼルニカゲッツ教授を中心とした研究グループは、幹細胞を組み合わせてマウス胎児の前段階の胚を作り出すことに成功したと発表しました。
マウス体内では、この胚はいずれ胎児になりますので、「人工的な生命の作成に成功した」とも言えるのですが、人工的な生命には技術的な問題以上に倫理的な問題が存在します。
生命倫理学という学問の分野があります。
生物学、医学から生じた倫理的な問題を扱う学問分野で、ライフサイエンス、バイオテクノロジー、医学と医療倫理、政治、法律、哲学が関連して構築されています。
少し前までは、生命倫理学の主に扱うものとしては、中絶、安楽死などの臨床的な医学分野に集中していました。
この問題には、宗教的または文化的な背景が大きく影響しており、国、地域によって異なる部分が多いため、グローバル化に伴い議論も活発になりがちです。
さらに近年、遺伝子のクローニング、遺伝子治療、人間にも応用できる遺伝子工学などの新しい要素も入ってきています。
特に遺伝子操作が可能となってからは、生命そのものに人間が手を加えることができるようになり、生命倫理も新しいステージに入ってきています。
そんな中で出現したのが胚性幹細胞(embryonic stem cells、ES細胞)です。
2. 議論を呼んだES細胞とiPS細胞出現による劇的な進歩
ES細胞は、その作製方法で大きな議論を呼びました。
作製方法は、受精卵が胚盤胞と呼ばれる段階にまで発生した段階で取り出し、人工的な操作に入ります。
フィーダー細胞を下敷きにして取り出した細胞を培養すると、内部細胞塊が増殖を始めます。
この内部細胞塊は、胎盤以外の全ての身体組織に分化してゆく細胞集団です。
増殖した細胞集団をいったんばらばらにして培養操作を繰り返すと細胞株化され、最終的にES細胞株となります。
この樹立ステップでは、受精卵、そして受精卵から発生が進んだ胚盤胞という初期胚が必要になります。
そのため、ヒトでES細胞樹立を行う場合は、受精卵という生命の萌芽を使うという倫理的に議論を呼ぶ行為が不可避です。
一般的には、卵子が受精して発生を開始した受精卵以降を生命の萌芽とするため、倫理的な問題の対象となります。
別の考えでは、神経系(脳などを含む)が発達した以降を生命の萌芽と見なすという考えもありますが、受精した段階からという考え方がやや多いのが現状です。
そのため、いくつかの国ではES細胞の研究に大きな制限がかかります。
例えば、2001年にはアメリカでヒトES細胞の樹立を公的研究費で行うことが禁止されました。
また、ES細胞研究一切を禁じている国も存在します。
受精卵を使用する研究ということで、中絶を禁ずる宗教的、文化的なバックグラウンドを持つ国では抵抗があるようです。
この動きは、ES細胞を使った再生医療の研究に大きな影響を及ぼしました。
こうした背景の中で出現したのがiPS細胞です。
この時点での生命倫理学における問題のため、iPS細胞の出現は大きなインパクトを与えました。
滞っていた再生医療の研究がiPS細胞の出現によって一気に進み始め、様々な疾患の治療方法に応用され始め、社会に大きな影響を与えました。
こう考えると、やはりノーベル賞受賞は納得できるのでしょうか。
一方で、生命倫理学の分野には新たな問題が持ち上がってきました。
それはiSP細胞を使った「人工生命誕生の可能性」です。
3. 今回の研究はどんな研究か?
今回ケンブリッジ大学の研究グループでは、iPS細胞ではなくマウスES細胞を使っています。
研究グループは、「精子と卵子を使わずにマウスの胚を作る」を目標として研究を行いました。
ES細胞を使うので、結局は精子と卵子を使うわけなので少しややこしい話になってしまいますが、「生命」というものを作り出す瞬間に精子と卵子を使わない、ということを目的とした研究という解釈です。
研究グループは、身体の組織になるES細胞と、胎盤になる幹細胞、そして卵黄のうに変化するタンパク質を導入したES細胞の3種類を混ぜて培養しました。
その結果、培養した細胞は胎児の前段階の胚とほぼ同じ構造になりました。
作られた人工の胚は、8日半まで成長しました。
この8日半という期間は、マウスの妊娠期間の半分近くの期間になります。
この段階になると、脳全体が発達を開始し、すでに発生が完了しつつある心臓の鼓動も確認されました。
この段階まで発生すると、哺乳類の胚が胎児となる過程、そしてその段階における臓器や脳の発達メカニズムの解析に使うことができます。
哺乳類の妊娠、胎児の成長、そしてその過程の仕組みを調べることを目的としてiPS細胞やES細胞を使って人工的に胚を作成する研究は世界各国で行われています。
この研究は、「人工的な生命を生み出す」ということが主な目的ではなく、妊娠・胎児の成長を解析するための研究材料を作り出すのが主な目的です。
不妊の原因の解明、治療方法の開発に大きな貢献をすると考えられていますが、報道の中には「将来的に移植用の人工臓器開発の道も開ける」と表現している記事もあります。
4. 新しい問題と継続される議論
もし移植用の人工臓器開発のためにこの研究によって生み出された胚が使われたとしたら、おそらく生命倫理学には新たな問題が出てくると考えられています。
それは、人工的に作られた胚、つまり人工的に作られた生命に対する生命倫理の線引きをどこにするか?という問題です。
この問題については、学術的な業界の議論以上に、小説、映画、マンガなどのSFの分野で多く題材として昔から扱われており、具体的に実現するであろう近い将来にどのような議論がされるのかは非常に興味深いところです。
今回の研究に対しては、専門家の間では高い評価が与えられています。
専門家が高評価をしているからといって生命倫理の問題を無視しているというわけではなく、専門家達は「進歩に従って問題も出てくるため、その都度議論していかなければならない」ということを十分認知しているためです。
この中で、生命科学が専門の京都大学高等研究院の斎藤通紀教授は「試験管の中で3種類の幹細胞を培養して合わせるだけで、これまでの研究でできなかった頭や心臓などが正しい形態で分化し、複雑な胚の構造ができる初期発生にまで再現が進んだことに驚いている。今はまだ初歩的なレベルだが、将来的にはヒトを含めた哺乳類の発生学を大きく進める成果だ」と評価しました。
受精卵からわずかな期間で発生する胚は、単純な構造ではなく加なり複雑な構造を持っています。
この複雑さが受精から成体の構築にいたる過程を研究する発生生物学において、いくつもの研究テーマを産み出し、そのテーマからさらに新しい研究テーマが派生しています。
発生生物学という研究分野は再生医療においては重要な研究分野であり、この分野を専門に研究する研究機関も存在します。
また、医学部、理学部には必ずといっていいほど発生生物学を専門にする研究室が存在しており、農学部でも畜産に代表されるように発生生物学を専門にしているグループが存在します。
今回の研究によって幹細胞を複合的に使って胚を作り出すステップが確立されました。
この研究はすぐに多くのテーマを派生させ、再生医療を進歩させるいくつもの研究結果を生み出すと考えられます。
それと並行して生命倫理学の分野でも多くの議論がなされ、こういった研究が常にプラスに使われるように社会が動いていくのでしょう。