iPS細胞の用途が広がる
この記事で紹介する研究は、新型コロナウイルスが脳の中で免疫の働きをする神経系の細胞に感染しやすいことを明らかにした研究です。
この研究は、感染後に後遺症が長引くケースに着目し、その後遺症には神経系の異常が多いことの原因を突き止めようとしたものです。
この研究にはヒトの脳細胞が使われましたが、この脳細胞はヒトから採取したものではなく、iPS細胞をヒト脳細胞に分化させてから研究に使いました。
このような、「ヒト由来のiPS細胞を○○細胞に分化させて研究に使う」というケースは日々増加しています。
iPS細胞が再生医療だけでなく、様々な研究に用いられていることはすでによく知られています。
まずは「ヒト由来のiPS細胞を○○細胞に分化させて研究に使う」がなぜ増えてきたのかから解説しましょう。
ヒトの細胞は、培養細胞化されて市販されているものが多く、理化学研究所などは様々なヒト由来培養細胞を分譲しています。
そういった細胞を研究室が購入した場合、細胞培養によって購入した細胞を増やして実験しますが、ここにいくつかの問題が生じます。
購入した細胞がヒトのがん細胞の場合は大きな問題は生じません。
ヒトがん細胞は無限増殖するという性質を獲得していますので、培養すればするほど増えます。
つまり、実験に使う細胞と、研究室ストックとして保存しておく細胞に分けておけば、いつでも細胞を増殖させて研究に使うことができるのです。
使わないときには液体窒素中で凍結保存しておけば、数年間の保存、維持が可能です。
しかしこれがヒトの健常細胞の場合はがん細胞とは異なった状況になります。
健常細胞の場合はがん細胞ほどの増殖能力はありませんし、細胞の分裂回数も限られています。
そのため、実験に使える回数は限られたものになり、頻繁に細胞を購入しなければならなくなります。
そのため、最近ではiPS細胞を購入して目的の細胞に分化させて研究に用いるという流れが一般的になりつつあります。
iPS細胞から脳細胞を分化させる
ここ数年、オルガノイドというiPS細胞などの幹細胞を3次元培養で作成することが多くの研究で見られるようになりました。
オルガノイドとは「臓器(organ)のようなもの」という意味であり、幹細胞から作られたヒトの組織を模した細胞塊です。
オルガノイドはヒトの臓器の構造、生理機能を生体内と同じように再現可能であるため、従来の「動物モデル」を相互に補完するモデルとして期待されています。
脳のオルガノイドという言葉は2013年あたりからですが、それまでは脳の発生の3次元での再現という表現がなされていました。
ES細胞、iPS細胞を1種類の神経細胞に分化させるだけでなく、複数の細胞から構成された3次元組織として分化誘導し、脳組織の一部を再現したのが脳オルガノイドです。
ヒトの脳が作られる過程、また脳細胞を実験用の器材の上で観察できるようになり、ヒトの疾病、生物学の研究が進めやすくなりました。
今回の研究成果もその一つです。
こういった研究は、「発生生物学」という分野が中心となって行われていました。
それまでは、発生中の個体、臓器などの組織を細かく観察するという「分けていく発生学」でした。
しかしES細胞、iPS細胞の出現によって、これらから3次元の組織を作れば、発生過程を再現しながら分子の動きを直接解析するという「つくる発生学」が可能となりました。
脳関連の疾病研究に用いられるiPS細胞
脳オルガノイドの発達によって、脳の疾患、様々な現象が脳に与える影響を実験室で解析することが可能になりました。
ヒトそのものを使う研究と比べると倫理的な問題が少なく、それほど大規模な設備も必要ありません。
さらに、iPS細胞を使えば遺伝子改変によって疾患モデルを作成して解析も可能ですし、最近一般化されつつある遺伝子編集技術を用いれば、多くの遺伝子が原因の疾病の解析が可能です。
神経難病に対する細胞移植で脳機能を回復させる治療研究を行っているグループは、大脳の神経細胞を誘導する方法の一つとして脳オルガノイドを使っています。
大脳の一部を再現したこの脳オルガノイドは、約2 mmから3 mmの大きさですが、本物の大脳と同様に層構造が構築されており、神経細胞同士の複雑なネットワークも形成されています。
研究グループでは、細胞を単独で移植するよりも、実験室で脳オルガノイドを構築してから移植した方が正常な機能を発揮できるのではないかと考えています。
脳オルガノイドはミニ脳ではない
ここで注意しなければならないのは、脳オルガノイドはミニ脳ではない、ということです。
小さな組織単位の集合体である腎臓、肝臓のオルガノイドは「ミニ腎臓」、「ミニ肝臓」と呼べるオルガノイドです。
しかし、脳は多様な細胞や組織で構成されており、これらの構成要素が複雑な層構造や機能別に分かれた脳部位を作り、互いに連携することによって脳の機能を発揮しています。
脳オルガノイドと血管をつないだり、筋肉とつないだりして研究することはすでに行われていますが、脳オルガノイドを使って意識を発生させたり思考させたりすることはできません。
つまり、現時点では脳の3次元培養、というよりも、神経組織の3次元培養と呼ぶ方が正しい表現です。
今回の研究は、慶応大学の岡野栄之教授らのグループが神経科学の国際的な専門雑誌に発表しました。
これは慶應大学の岡野栄之教授のグループによって行われ、神経科学の国際的な専門雑誌に発表されました。
岡野教授らによる研究の詳細
岡野教授らは、新型コロナウイルスが脳に対してどのような影響を与えるのかを調べるために、iPS細胞から3種類の神経細胞を分化させ、さらに脳の一部を再現したオルガノイドを作成しました。
そしてこれらの細胞、オルガノイドにコロナウイルスが感染するかどうかを試しました。
研究グループは、コロナウイルスのうち、従来の型とデルタ株、そしてオミクロン株の特徴を人工的に再現したウイルスを作成して感染実験を行いました。
その結果、いずれの場合もミクログリアという神経系の細胞に感染することが確認されました。
ミクログリアは中枢神経系グリア細胞の一種で、中枢神経系の免疫担当細胞として知られ、中枢神経系に存在する常在性マクロファージとも呼ばれています。
同じ神経系の細胞であるアストロサイト、オリゴデンドロサイトとは異なり、胎生期で発生する前駆細胞を由来とする細胞です。
ミクログリアは、正常な状態では脳や脊髄に点在しており、細胞同士が重ならないように分布しています。
新型コロナウイルスに感染した人の中には、記憶障害や頭にもやがかかったように感じて思考力が落ちる症状を訴える人が少なくありません。
これは「ブレインフォグ」呼ばれていますが、原因はわかっていません。
研究グループはこの研究を通じて、コロナウイルスが脳、中枢神経系のどの細胞に感染するかを特定しただけでなく、感染する細胞、つまりミクログリアが多く持っているタンパク質を足がかりに感染していることを示唆する結果も得ています。
コロナウイルスに限らず、各種ウイルスは、感染する細胞によって様々な症状を引き起こします。
その症状のうちいくつかは後遺症として、長期間に渡って患者の生活に影響を与え続けることがあります。
こうした後遺症の原因を明らかにすることは、高熱などの症状が治まった後に健康な身体を取り戻すために大いに役立ちます。
新型コロナウイルスの出現によって、様々な細胞に感染した場合、どのような症状、影響がヒトの身体に出てくるのかを研究するために、iPS細胞を使って様々な分化細胞が作られて研究に用いられています。
その結果、iPS細胞を使った分化技術が、この数年間で大きく進歩しました。
今後数年間にわたってこの動きは活発化し、これまでにない多くの技術が研究成果として発表されていくと思われます。