近視性網脈絡膜萎縮症に対する移植手術の成功
名古屋市立大学とファーマバイオ株式会社は、近視性網脈絡膜萎縮症に対するヒト(同種)皮下脂肪組織由来間葉系幹細胞シート移植の臨床試験の実施に関して契約を締結し、第1例目の移植手術に成功したことを報告しました。
この移植手術はヒト(同種)皮下脂肪組織由来間葉系幹細胞シートを使って行われた手術であり、幹細胞シートはPAL-222という名前で呼ばれています。
PAL-222は、名古屋市立大学大学院医学研究科の視覚科学分野 安川 力教授による世界初の独自開発技術であり、細胞自身が産生する細胞外マトリックス成分から構成されるブルッフ膜様構造と呼ばれる構造を持ちます。
この細胞シート作成技術を基盤とし、ファーマバイオ社が内因性の足場構造を伴う細胞シート化技術として独自に応用、発展させ、この技術によりヒト(同種)皮下脂肪組織由来間葉系幹細胞をシート化した再生医療等製品です。
さらに詳しく解説すると、人工的な外因性の足場構造を使って細胞群を構成するのではなく、内因性の足場構造を伴う間葉系幹細胞シートです。
幹細胞移植では、細胞懸濁液を注射、点滴などで体内に送り込む手法がよく使われていますが、このシートでの移植は細胞懸濁液の移植と比較して、
- 細胞生着率向上
- 移植細胞の機能発揮。これは視機能改善、維持につながります。
- 合併症リスク軽減等の可能性をもつ。
- 間葉系幹細胞の特性である同種拒絶反応を起こしにくい
- 種々の成長ホルモン、サイトカインを分泌することにより、周囲の組織機能の保護効果を有することが期待される。
こういった利点があります。
このシートで利用されている細胞外マトリックス成分は、細胞が接着したり、組織を形作ったり、外力に抵抗するために必要な成分です。
この成分を足場とするには、人工的に細胞外マトリックス成分を使う方法もありますが、この研究では細胞自体によって形成される細胞外マトリックス成分を使っています。
つまり、細胞から作られるコラーゲン線維(膠原線維)や弾性線維、その他、多くの物質からできており、細胞に対して余計なストレスを与えることがありません。
この手術に先立って、PAL-222は、非臨床試験によって毒性、造腫瘍性試験等の安全性試験ならびに網膜保護効果を確認する薬効・薬理試験などが調べられ、安全性および有効性が確認されております。
この試験は、臨床試験、PAl Myopic Chorioretinal Atrophy:PAMyCA試験、登録番号 NCT05658237/jRCT2043220105として届け出がなされて今回実施されました。
近視性網脈絡膜萎縮症という疾病
日本を含むアジア地域は、近視が多い事が知られています。
欧米の風刺画などで日本人や中国人が眼鏡をかけた姿で描かれるのはこのことも理由の一つです。
近視の中で、強度の近視に伴って生じる近視性網脈絡膜萎縮は日本の中途失明の原因として上位に入っています。
近視が徐々に強くなり、萎縮が生じる過程を本質的に予防、または治療するための医学的な方法は現在の所まだ確立されていません。
欧米では強い近視の患者が多くないために、この分野での研究がそれほど盛んではないために研究を行う機関、チームが少ないことが、研究の立ち後れに関与しています。
そのため、アジア各国の研究機関、特に日本が主導して研究が進められています。
幹細胞、iPS細胞を使った治療確立の研究には京都大学が主導的な役割を果たしており、予防や治療法の開発につなげる事を目指して、ゲノム医学的アプローチ、画像解析アプローチ及び疫学的アプローチの3つの方法で、その病態解明に取り組んでいます。
まず、近視性網脈絡膜萎縮症の理解に重要なキーワードを解説します。
眼軸長伸長に伴って網膜色素上皮を支えるブルッフ膜が断裂し、時に、傷の修復反応が誤って脈絡膜から網膜下に侵入する異常血管を発生させます。
この以上血管発生は、血管新生、また発生した血管を新生血管と呼び、近視性網脈絡膜萎縮症の場合は近視性脈絡膜新生血管と呼びます。
発生した新生血管から漏れ出す血漿、出血を放置した場合、視野の中心部にゆがみ、暗転が生じます。
現在は眼内注射薬が認可されており、視力改善・維持ができる場合も多いのですが、症例の一部が黄斑部萎縮に進行します。
近視性牽引黄斑症、という症状が近視性網脈絡膜萎縮症に見られることがあります。
これは眼軸長伸長で網膜が後方へ偏位していくため、網膜に付着した眼内のゲル(硝子体)が相対的に網膜を前方へ牽引する力が発生します。
それにより、網膜が分離したり、黄斑に穴(円孔)が開いたり、その円孔に伴って網膜剥離が発生したりします。
放置すると視力低下、視野欠損、失明の可能性が高くなります。
治療としては硝子体手術を行いますが、必ず治療ができるというわけではありません。
そしてこの疾病にとって重要な部位が網膜色素上皮です。
網膜色素上皮は、網膜の一番外側にある1層の細胞であり、網膜の視細胞のメンテナンスや栄養物質や老廃物の輸送、脈絡膜からの血液の成分の移動を遮断して、網膜の光を感受する高度な機能を支えています。
網膜機能維持のためには、この網膜色素上皮は必要不可欠で、萎縮してしまうと脈絡膜毛細血管と網膜の視細胞も萎縮してしまいます。
近視性網脈絡萎縮症への対応について
研究グループがまず行った試験は、近視性網脈絡萎縮症患者を対象に、シートであるPAL-222を移植したときの有効性及び安全性を探索的に確認しています。
この試験は第Ⅰ/Ⅱa相、非遮蔽・非無作為化比較試験であり、組み入れ症例数は10例でした。
先にも述べましたが、近視性網脈絡膜萎縮は眼球の前後方向の長さが伸びてしまうことが原因の強度近視に関連して生じる重篤な病態です。
眼底疾患として分類される症状として、近視性網脈絡膜萎縮、近視性脈絡膜新生血管、近視性牽引黄斑症が挙げられます。
近視性牽引黄斑症は、網膜分離症、黄斑円孔、黄斑円孔網膜剥離を生じます。
日本における視覚障害者手帳交付の原因疾患では、近視性網脈絡萎縮は5番目に多い原因であり、近視性網脈絡萎縮が引き起こす、または伸展すると近視性網脈絡異種になる強度の近視は10番目に多い原因となっています。
こうした疾病のために治療方法の確立が望まれるところですが、先述したようにアジア地域でよく見られ、他地域ではそれほど多くないことから世界的に研究が進められれる状況にはなっていません。
そのため、近視性網脈絡膜萎縮の発症原因解明は未だ十分でありません。
現時点では、近視に伴う眼軸長の延長がきっかけとなって網膜と脈絡膜に影響が出て、網膜機能を維持するための網膜色素上皮の細胞密度が低下、機能障害が起こると考えられています。
この機能障害によって、脈絡膜毛細血管の萎縮、さらに網膜および網膜色素上皮自身が萎縮する悪循環により、網脈絡膜萎縮が発生します。
今回の手術成功は、近視性網脈絡膜萎縮症の治療に大きな進歩をもたらすものです。
現時点では疾病のメカニズムの詳細までが明らかにされていませんが、今回の手術の成功によって、治療方法の基礎的な部分の確立がなされたと考えられます。
今後、基礎的な研究の進展と共に、臨床での治療方法が改良され、有効な治療方法に進んでいくと思われます。
幹細胞シートであるPAL-222も、今後改良が進められていくと考えられますが、この改良はファーマバイオ株式会社と名古屋市立大学の共同で行われると考えられます。
ファーマバイオ株式会社は1978年に設立され、現在は再生医療等製品の開発製造、開発製造受託、そして細胞の微生物安全性試験等各種受託試験・検査を柱として事業を進めている企業です。
幹細胞、iPS細胞を使った再生医療は、眼の疾病についての研究は比較的早く始まりました。
眼の疾病によって失明する例は多いのですが、思っているよりも近い未来にこうした失明にまで及ぶ疾病の治療方法が確立されるという期待が高くなりつつあります。