1. 乳歯歯髄幹細胞を基盤とした創薬
乳歯歯髄幹細胞(SHED:Stem cells from human exfoliated deciduous teeth)は、採取の容易さから幹細胞治療に用いる細胞として注目されています。
キッズウェル・バイオ株式会社は、ナノキャリア株式会社と共同研究契約を結び、乳歯歯髄幹細胞の用途拡大に向けた研究開発を行うことを発表しました。
キッズ・ウェル株式会社は、北海道大学遺伝子病制御研究所の研究シーズを診断薬や治療薬として開発することと、医薬品開発における受託サービスを目的として、ジーンテクノサイエンスとして発足した大学発のベンチャー企業です。
これまで多くの製薬企業、大学と共同研究、共同開発を行っており、2021年7月に、社名をキッズウェル・バイオ株式会社と変更しました。
ナノキャリア株式会社は、東京大学の片岡一則名誉教授、東京女子医科大学の岡野光夫名誉教授らの研究による、ナノテクノロジーを使った医薬品開発を目的として設立された会社です。
日本独自の技術であった高分子ミセル、ミセル化ナノ粒子技術をつかって、粒子を薬物輸送に使い、新しいがん治療法を切り開くことを現在の目的にしています。
この2つの企業による共同研究・開発の目的は、乳歯歯髄幹細胞をベースとして治療効果を強化した次世代型細胞医薬「デザイナー細胞」の構築です。
デザイナー細胞は、疾患部位に細胞が到達しやすくするための「指向性の強化」、「より高い治療効果」を実現するためのツールです。
これを使って、現在根治が難しいとされている疾患に対する次世代の医療を開拓することが大きな目的になります。
具体的な開発は、乳歯歯髄幹細胞に遺伝子を安定的に導入し、目的に沿った遺伝子型を持つ乳歯歯髄幹細胞の安定供給を目指すものです。
遺伝子導入は、大腸菌などの形質転換のために使われるプラスミドに遺伝子を組み込んだものではなく、遺伝子から転写され、タンパク質のアミノ酸配列を指定するメッセンジャーRNA(mRNA)を導入するものです。
2. メッセンジャーRNAの細胞導入とは
メッセンジャーRNAを細胞に導入する目的は大きく分けて2つあります。
1つは、もともと体内にあるメッセンジャーRNAと相補的なメッセンジャーRNAを細胞に導入することによって、ターゲットのメッセンジャーRNAを分解する目的です。
相補的というのは、2つのメッセンジャーRNAの塩基配列が互いに結合するような配列になっている状態を指します。
体内にあるメッセンジャーRNAに、人工的に導入されたメッセンジャーRNAが結合すると、細胞内ではすぐに分解してしまうシステムがあります。
メッセンジャーRNAが分解されると、そのメッセンジャーRNAから合成されるタンパク質が作られません。
その結果、そのタンパク質の持つ機能が発揮されない細胞が構築されます。
この手法は、RNA interference(RNAi)、またはRNA干渉と呼ばれる手法で、生命科学の分野では多用されている方法です。
2つめは、細胞内であるタンパク質を作るために、そのもととなるメッセンジャーRNAを細胞内に導入する目的です。
細胞内に導入されたメッセンジャーRNAから、目的のタンパク質が合成され、本来その細胞が持たないタンパク質を保有する細胞が構築できる、また少量の目的タンパク質しかもたない細胞に、多量の目的タンパク質を持つという性質を与えることができます。
メッセンジャーRNAを導入してタンパク質を作らせる方法は、コロナウイルスのワクチンに使われている方法です。
コロナウイルスは人間が持っていないタンパク質を持っています。
このタンパク質のもとになるメッセンジャーRNAをワクチンとして注射すると、このメッセンジャーRNAは細胞内に導入され、細胞内でコロナウイルスのタンパク質を合成します。
合成されるコロナウイルスのタンパク質は、コロナウイルスを構成するタンパク質の一部ですので、このワクチン注射によって体内でコロナウイルスが作られることはありません。
作られたコロナウイルスのタンパク質は、人間にとっては異物ですので、抗原抗体反応が起こり、人間の体内でこのコロナウイルスのタンパク質に対する抗体が作られます。
この作られた抗体が、コロナウイルスが体内に侵入した時に、ウイルス攻撃を担当します。
抗体を持たない時と比べて、予め抗体を持っている場合は体内の対応が早くなりますので、発症抑制、また発症しても重症化しにくくなります。
3. 用途が広がる「デザイナー細胞」
これまで医薬品は、天然化合物、人工的な化合物、そして抗体医薬品と進歩を続けてきました。
そして、最近は細胞を利用する動きも活発です。
細胞は、創薬、細胞医薬、そして有用な物質生産の「道具」として、需要、品質管理の必要性が増加しています。
遺伝子の重要性は多くの人が知っていることですが、実際にこの遺伝子と身体の中に起こる事を結びつけるにはいくつかのステップが必要です。
遺伝子は、DNA、RNAを含む核酸の総称ですが、まずDNA上の情報がRNAとして“転写”されます。
このRNAはこの段階では前駆体として扱われ、タンパク質の合成に必要な情報のみを持った成熟型のメッセンジャーRNAになります。
この段階で、タンパク合成には不必要な部分がスプライシングというステップで除去されます。
成熟型のメッセンジャーRNAの情報をもとにしてアミノ酸の配列が決定し、アミノ酸がつながった鎖が合成され、この鎖が立体化してタンパク質が完成します。
このステップを人工的に行う、つまり試験管内、実験室内の機器で行うことは非常に困難です。
しかし、生物の最小単位である細胞は、自身の内部にこのシステムを持っています。
細胞自身が持つシステムを人間がコントロールすることによって、人間の目的に沿った細胞を作るという手法は、かなり前から生命科学の分野では行われてきました。
プラスミドと呼ばれる環状DNAに目的遺伝子を組み込んで、そのプラスミドを細胞に導入する方法から始まり、現在ではコロナワクチンのようにメッセンジャーRNAを細胞に導入してタンパク質を作らせる方法まで、いくつかの方法が確立されています。
これまではこういった方法は、生命科学の研究、近年になってタンパク質の大量合成が必要な産業でのみ使われてきました。
そして、最近ではデザイナー細胞として、医療に使う、つかり医薬品として使おうとする動きが拡がってきています。
4. 世界をリードする「日本のデザイナー幹細胞」
日本は、iPS細胞の構築を世界に先駆けて山中教授が成功したことにより、幹細胞の「デザイナー細胞化」の研究は世界の先頭を走っている状況です。
官民の研究資金によって、多くのプロジェクトが立ち上げられています。
これらのプロジェクトは、主に4つの柱で構成されています。
- 新規デザイン方針の探索:どういった細胞をデザインするのか、を目的沿って検討し、方向性を決めます。
- デザイン技術の開発:日本がこれまでに培ってきたノウハウを使って、新しいデザインの手法、品質の管理方法の模索を行います。簡便な手法で操作、編集制御ができればコストダウンにもつながり、医療技術として提供しやすくなります。
- デザイナー細胞の具現化・洗練と製造基盤の構築:臨床試験を視野に入れて、デザイナー細胞を試作。その段階で出てきた問題を解決し、より精緻に、そしてより安全なデザイナー細胞の構築を目指す、「作り込み」のステップ。
- 臨床試験の推進と社会実装:作られたデザイナー細胞を使って実際に臨床試験を行い、社会への普及・展開を目指します。
今回の共同研究開発は、これらのステップを進めていく上で初期段階、そして、必要不可欠な、「幹細胞への遺伝子導入」を産業レベルで使える方法を開発しようとするものです。
つまり、実際に細胞工場で使われる方法を確立することを目指し、ある程度コストがかかっても良いとされる研究レベルの手法から、より低コスト、より安全に、そしてより正確に、を達成できる幹細胞への遺伝子導入方法の確立が目標となります。
現時点で、研究開発を主導する政府などに置いては、「日本が先駆的なことを行ってきたとはいえ、国内外での競争はスタートラインに立った段階であり、予断を許さない。」という見方で政策が進められています。
特に、国内での競争は激しく、この競争が結果的に日本全体の技術レベルを上げるものと期待されています。
岸田総理が施政方針演説で述べた、「科学技術立国」とは、こういった生命科学・医療分野において、日本国内の官民が世界に先駆けた技術開発を構築することを目指す、ということも含まれています。