1. 肺疾患で高まる再生医療のニーズ
肺を中心とした呼吸器系の疾患には、慢性閉塞性肺疾患、肺線維症、急性呼吸窮迫症候群など、多くの難治性疾患があります。
この中で、急性呼吸窮迫症候群は新型コロナウイルス感染症で合併症として発症するなど、非常に危険な疾患かつ極めて予後が悪い疾患です。
これらの呼吸器難治性疾患に対して、現在は外科的に肺を移植する治療方法がベストと言われています。
しかし、肺の移植は、拒絶反応の問題、そしてドナーの不足が大きなハードルとなっており、誰でも受けられる治療ではありません。
現在、呼吸器難治性疾患に対する有効な治療方法として大きな期待を寄せられているのは幹細胞を使った細胞治療による肺再生医療です。
これまでに、間葉系幹細胞、脂肪由来幹細胞などが使われる細胞治療が行われてきましたが、これは幹細胞から分泌される物質が、患者の肺細胞などに及ぼす影響を期待したものであり、肺を再生させる目的で行われているものではありませんでした。
肺を再生させるためには、肺細胞の前駆細胞である、「肺前駆細胞」が必要です。
肺前駆細胞は、呼吸器上皮細胞に分化する途中段階にある細胞であり、肺胞上皮細胞と気道上皮細胞の両方に分化することができます。
しかし、肺前駆細胞は入手が困難である上に、培養によって増殖させることが難しく、医療使用に耐えうるだけの品質維持も困難でした。
そのため、医療目的で使用するための評価はこれまで行われてきませんでした。
肺の再生に有用な細胞は特定されていたのですが、人間が持っている技術の限界で医療に使うことができなかったのです。
2. 肺の再生に向けて細胞培養の効率化に成功
京都大学、HiLung株式会社、株式会社セルファイバの3つの器官、企業から構成される研究グループは、肺の再生について大きな進歩となる研究成果を発表しました。
京都大学のグループは、大学院医学研究科・呼吸器疾患創薬講座・呼吸器内科学の後藤慎平特定准教授を中心とするグループです。
HiLung株式会社はヒト肺幹細胞技術を中心技術として、呼吸器領域に特化したバイオ企業です。
後藤慎平特定准教授が社外取締役に名を連ねており、京都大学と密接な関係があるベンチャー企業です。
そして、この研究グループの特色の1つとして、セルファイバという会社が参加していることが挙げられます。
セルファイバは、2015年に設立された東京大学発のベンチャー企業です。
コアとなる技術は、細胞を使ってひも状の細胞塊を作製する「細胞ファイバ技術」です。
つまり、細胞を素材とした製品の開発を通じて、細胞治療用との細胞量産技術開発を行っている企業です。
これまで、この京都大学のグループは、ヒトiPS細胞から分化誘導させた肺前駆細胞を使って、人工的に肺胞、気道上皮細胞を効率よく分化誘導させる技術を報告しています。
しかし、分化誘導した細胞が再生医療に実際に使えるのかどうか、さらに治療に必要なだけの細胞数が確保できるのかどうか、という課題が残されていました。
一方で、セルファイバは細胞ファイバ技術を開発し、実用化段階までこぎ着けていました。
アルギン酸由来のハイドロゲルマイクロチューブの中に細胞を封入することによって細胞を素材としたファイバーを作製するこの技術は、細胞を三次元細胞塊化して人工的な組織を構築したり、細胞数を増やすためのスケールアップ培養に適していることが報告されています。
この2つの技術、iPS細胞からの分化誘導技術と細胞ファイバ技術を融合させることによって、培養の拡大に成功し、以前と比べると大量の細胞を確保することに成功しました。
それまでの技術では、マトリゲルという素材を使っていましたが、この素材は再生医療に応用することが困難であり、臨床には適していませんでした。
しかし、細胞ファイバ技術を使うとマトリゲルを使う必要性がなく、効率的に増殖させることが可能であることが確認されました。
さらに、このステップの後、肺前駆細胞まで分化誘導した細胞ファイバの培地を、分化誘導用の培地に変更するという操作のみで、人工的に肺胞、気道上皮細胞に分化させることに成功しました。
さらに遺伝子の解析によって、この分化誘導した細胞の質がこれまでよりも優れていることが明らかとなり、量だけでなく質もこれまでと比べて高い細胞を準備することに成功しています。
3. 肺前駆細胞の医療応用に道
これまでヒトiPS細胞由来の分化誘導した細胞をマウスの肺に肺胞上皮細胞として生着させた報告はありませんでした。
この生着が成功すれば、肺の再生に幹細胞(iPS細胞)を使うことに道が開けるので、おそらく多くの研究機関が挑戦していると予想されていますが、現在までに成功の報告をしたグループはありませんでした。
このiPS細胞由来の細胞をマウスに生着させることを目的として、この研究グループは細胞投与方法の開発を行いました。
開発した細胞投与方法によって、肺障害を起こしたマウスの肺にヒトiPS細胞由来肺前駆細胞を移植すると、移植した細胞が2ヶ月間マウスの肺胞領域に生着することが観察されました。
さらに、遺伝子発現パターンの解析などを使ったデータから、生着した細胞が、マウス生体内で肺胞上皮細胞に分化しているだけでなく、気道上皮細胞の1つであり、粘液産生、気道の維持に関与しているクラブ細胞に分化していることも確認されました。
さらに、肺前駆細胞ファイバからゲルを溶かすことによって中の細胞を露出させ、その細胞をマウスの肺に移植、生着させることにも成功しています。
4. 今後の課題
この研究は、肺の再生に必要な細胞を、質、量ともにこれまでの細胞と比べて高いレベルで準備することに成功しました。
さらに、肺前駆細胞の培養システムの開発にも成功し、そのシステムから生み出された細胞が、マウスの肺に移植され、生着するところまで確認しています。
さらに、生着した細胞は、構造的にマウスの肺を構成する細胞と置き換わっていることも確認されました。
しかし、現時点ではマウスの肺に存在する上皮細胞全体の1%程度の置換率であり、今後はこの置換率を上昇させる技術を開発することがカギとなりそうです。
さらに、構造的に置き換わっていることが確認された肺の細胞の機能確認が必要になります。
構造的に置き換わっているだけでなく、置き換わった細胞が肺の細胞としての機能を持ち、マウスの生存に貢献していることを確認しなければ、iPS細胞を使った再生医療への使用に耐えることができません。
今後は、肺細胞としての機能がどのレベルまで生体内の細胞を再現できているかによって、治療方法の実用化への道筋が見えてきます。
このヒトiPS細胞を使った肺の再生、正確には「肺を構成する細胞を人工的に再生する」ことが可能となれば、呼吸器系の難治性疾患によって機能が失われた細胞を、機能が正常な肺の細胞に置換することが可能となります。
肺を構成する細胞の機能、そしてその細胞の集合体の機能を人工的に再現することは困難で、これまでは研究室レベル、つまり研究としてデータを取るレベルでは良好な結果を得られたケースもあります。
しかし、医療に使うだけの細胞数の確保、細胞の質の担保、そして細胞の分化誘導の効率化が伴わないと、医療に使えない、または医療に使えたとしても時間、コストがかかるとして、一般的な治療にはなりません。
今回、京都大学を中心としたグループが成功した技術開発は、iPS細胞を使った肺の治療に大きな道を開くもので、今後技術の発展によって呼吸器系難治疾患の予後が飛躍的に改善される可能性を秘めた研究ということができます。