1. がん幹細胞とは
iPS細胞、ES細胞に代表される人工幹細胞、臍帯血などから抽出される体内の幹細胞は、再生医療に重要なアイテムとして知られています。
一方で、がん幹細胞というものの存在も知られていますが、一般的にはそれほど認知度は高くありません。
がん幹細胞は、がん細胞の中での幹細胞です。
つまり、幹細胞から様々な細胞が分化していくのと同様に、がん幹細胞からは様々な性質を持ったがん細胞が増殖していくと考えられています。
さまざまな性質の中には、治療に対する抵抗性、例えば抗がん剤耐性などが含まれており、こういった性質ががんの治療を難しくしている原因と考えられています。
がん幹細胞は、現在非常に盛んな研究分野の1つであり、様々ながん種を使ってメカニズムの研究が進んでいます。
しかし、がん自体が、性質の個体差が大きな細胞であるという側面から、がん幹細胞も様々な個性があり、この個体差、個体による違い、そして「同じ個体に存在するがん幹細胞でも性質が違う場合がある」という特殊性から、なかなか一般化することが難しい細胞です。
2. グリオブラストーマとは
今回、岐阜薬科大大学院の研究グループは、金沢大学、東京大学との共同研究で、がん幹細胞の機能を制御するスイッチを発見しました。
ターゲットとなったのは、脳腫瘍の一種であるグリオブラストーマで、この細胞を使い創薬ターゲットとなり得るスイッチの解析に成功したものです。
まず、この研究グループの中心となった岐阜薬科大学ですが、一般の方、また東海地方以外の方にはあまりなじみのない大学かもしれません。
岐阜市によって設置された市立大学で、戦前の岐阜薬学専門学校を母体としています。
○○薬科大学という私立大学が多いため、私立大と思われがちですが、公立大学であり、薬剤師養成だけでなく、生命科学分野では研究能力も高い大学として認知されています。
そして、グリオブラストーマですが、これは大きな区分ではグリオーマという疾患に分類されます。
グリオーマは、脳に存在するグリア細胞ががん化した疾患であり、悪性度によって4つのグレードに分類されています。
このうち、悪性度が高いものがグリオブラストーマで、発症頻度も高く、急性的に悪化する頭痛、認知症、運動麻痺などの症状を特徴としています、
現在行われている標準的な治療は、手術によるがん組織の摘出ですが、グリオブラストーマは脳の組織に染みこむように広がっていくため、完全に取り除くのはほぼ不可能です。
手術後の抗がん剤投与、放射線治療を組み合わせた治療を行った場合でも、5年生存率は10 %程度という疾患です。
しかも、その性質から新たな治療方法の確立が困難で、ここ数十年は治療の改良による効果は数字では出ていません。
このように、多くのがんの中でもグリオブラストーマは特に治療が困難で、発見後の余命も短いことで知られています。
この原因の1つとして、がん細胞集団の中に見られる「がん幹細胞」が、グリオブラストーマの治療を困難にしているという見方があります。
がん幹細胞は、がん細胞を生み出す能力と共に、治療に対する抵抗性も持つことがわかっており、抗がん剤によってがん細胞の塊が小さくなり、検査では検出不可能な大きさになっていたとしても、わずかながら残っているがん幹細胞が何らかのきっかけで再増殖を開始し、がんが再発するのではないかと考えられています。
こうして再発したがんは、がん幹細胞が産み出したために、前に治療ターゲットとなったがん細胞とは性質が異なり、しかも抗がん剤耐性も持っている可能性が高いために治療は非常に厄介なのです。
こうしたがん幹細胞は、最近になって治療ターゲット、創薬のターゲットとして研究され始めていますが、現在がん幹細胞のメカニズムに関しては不明な点が多いために、なかなか効果的なターゲットを見つけ出すことができませんでした。
3. 制御するためのスイッチを発見
この研究グループは、グリオブラストーマ由来のがん幹細胞に存在する、SMAD specific E3 ubiquitin protein ligase 2(SMURF2)というタンパク質に着目しました。
このSMURF2ががん幹細胞の機能をコントロールし、SMURF2の機能を調節するスイッチを切り替えることでグリオブラストーマの進行が制御されることの発見がこの研究の柱となっています。
まずはこの研究の流れをまとめてみましょう。
- グリオブラストーマの制圧には、がん幹細胞の制圧が重要であり、この問題を解決しないとグリオブラストーマは制圧できない。
- グリオブラストーマの患者から採取したがん組織では、SMURF2というタンパク質の特定の部位で、リン酸化レベルが低下する現象が見られた。
- この特定部位のリン酸化を調節することで、SMURF2は活性化したり、活性が低下したりするため、このリン酸化調節システムががん幹細胞の機能調節スイッチになる可能性がある。
- 解析すると、SMURF2は、がん細胞に重要な分子を分解することで、がん幹細胞の機能を抑制する能力を持つことが明らかになった。
これによって、SMURF2周辺を創薬ターゲットとすれば、グリオブラストーマの根治に関わるターゲットになり得るのではないか、と考えられます。
がんの治療においては大きな発見であり、今後は具体的な創薬戦略のための研究が進んでいくと思われます。
この研究グループは、これまでに「あるタンパク質の作用を阻害することによって、がんの進展を阻害する」ということに成功しています。
この時にターゲットとなった分子は、CDK8というタンパク質で、このタンパク質をターゲットとすることは、がん幹細胞に対しても攻撃を加えることとなるために注目されていました。
さらに、骨、脂肪を産み出す間葉系幹細胞の機能調節にSMURF2タンパク質が重要であることをすでに発見していました。
間葉系幹細胞はがん幹細胞と異なり、我々の生命維持には重要な幹細胞ですが、この幹細胞の調節に必要であるとしてタンパク質を特定しただけでなく、この時にこのタンパク質の機能調節メカニズムも明らかにしています。
がん抑制のノウハウと、幹細胞に重要なスイッチ調節のノウハウを融合させた研究が今回の研究であり、グリオブラストーマの制圧に向けて大きな一歩となったわけです。
4. 今後の展開
まず、この研究で行われ、明らかになったことを細かい点まで整理しましょう。
- SMURF2というタンパク質がグリオブラストーマのがん幹細胞にとって制御因子であることを発見。
- SMURF2の機能は、SMURF2自身のThr249という部分がリン酸化されるかされないかによって左右される。
- 活性化したSMURF2は、がんに重要な分子を分解する、一方でSMURF2が活性化されていないときにはこの分子が分解されない、このメカニズムによってグリオブラストーマのがん幹細胞の機能が調節されている。
そしてこれらの発見から、「がんを根治するためには、がん幹細胞も含めた制圧が重要である。」ということが科学的根拠によって証明されました。
今までは、「おそらくがん幹細胞の制圧はがん治療、特に根治にとっては重要であろう」という予測を元に研究が行われていたのですが、この研究によって明確な科学的根拠によって「がん幹細胞の制圧は必須」ということが証明されたわけです。
研究チームはすでに、SMURF2のThr249部分のリン酸化を調節できる薬剤の探索を開始しています。
化合物ライブラリーを使って、Thr249のリン酸化調節に有用な化合物、また単体だけでなく、複数の化合物を使って効果を探索する研究を進め、薬剤の候補となる化合物を絞り込んでいきます。
この研究ステップは「スクリーニング」と呼ばれるステップで、研究資金だけでなく人的リソースも大量に必要とする研究です。
日本の新薬開発能力は欧米の大規模製薬会社にどうしても後れをとってしまっていますが、このような重要な発見から、日本独自の創薬が展開できれば日本の新薬開発能力も維持することができます。
特に、がんという分野での新薬開発は、医療現場だけでなく患者の生活も替える効果があるため、大きな注目浴びやすい分野です。
通院による抗がん剤治療によってがんが治療できれば、患者、家族の負担も大きく軽減することができます。
また、がん幹細胞も含めて、「体内にあるがん細胞」を全て制圧することができれば、再発の確率も大きく減らすことができ、予後の改善に大きな効果を与えるでしょう。
今回ターゲットとなったグリオブラストーマは特に困難ながんとして知られています。
検査などで発見された場合は、すでに「余命」を考えなければならない段階になってしまうため、どうしても治療に対して前向きになれない患者が出てきてしまいます。
しかし今回のがん幹細胞の制御も含めた創薬ターゲットの発見によって、意外と近い将来に、根治が可能となる抗がん剤開発につながるかもしれません。