精子形成を体外で再現するという長年の課題
精子は、精巣内で複数の発生段階を経て作られます。その出発点となるのが、精原細胞です。精原細胞の一部は幹細胞として自らを維持しながら、別の一部が分化し、減数分裂や形態変化を経て成熟精子へ進みます。
この過程は、精巣内の支持細胞、ホルモン、組織構造、細胞間シグナルが複雑に組み合わさることで成立します。そのため、ヒトの精子形成を培養皿の中で再現することは容易ではありません。
マウスでは、多能性幹細胞から生殖細胞を誘導し、次世代につながる配偶子を作製した研究があります。しかし、ヒトとマウスでは生殖細胞の発生速度や遺伝子制御、成熟に必要な環境が異なります。マウスで成立した方法を、そのままヒトへ置き換えることはできません。
ペンシルベニア大学を中心とする研究グループは、ヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から精子形成の初期段階にある精原細胞を誘導する方法を報告しました。成果は2026年7月10日、幹細胞研究の専門誌『Cell Stem Cell』に掲載されています。
今回の重要点は、成熟精子を作ったことではありません。ヒトの生殖細胞を、これまで再現が難しかった発生段階まで進め、自然な精原細胞に近い遺伝子発現状態を確認したことにあります。
体細胞を初期化し、精子形成の出発点へ戻す
研究では、成人の体細胞から作製したヒトiPS細胞が用いられました。iPS細胞は、皮膚や血液などの体細胞へ特定の因子を導入し、さまざまな細胞へ変化できる状態に初期化した細胞です。
研究グループはまず、iPS細胞を始原生殖細胞様細胞へ分化させました。始原生殖細胞とは、胎児期に精子または卵子のもとになる細胞です。成人の精巣に存在する精原細胞よりも、さらに早い発生段階に位置します。
ただし、始原生殖細胞様細胞を通常の培養条件で維持するだけでは、その後の精子形成は十分に進みません。生殖細胞は、周囲の体細胞から受け取るシグナルによって発生方向を決めるためです。
そこで研究グループは、iPS細胞由来の生殖細胞と、マウス精巣由来の支持細胞を組み合わせました。細胞は自己組織化し、精子形成の場である精細管に似た構造を持つ「再構成精巣」を形成しました。
さらに、この組織をマウスの腎被膜下へ移植しました。腎被膜下は血流が豊富で、移植した組織へ酸素や栄養が届きやすいため、組織の長期維持を調べる実験に利用されます。
約6カ月後、ヒトiPS細胞に由来する生殖細胞の一部が、精原細胞に相当する段階へ進んでいました。単に形が似ているだけでなく、自然なヒト精原細胞に近い遺伝子発現パターンも確認されています。
胎児期の生殖細胞から精原細胞までをたどる
ヒトの生殖細胞が精原細胞へ進む過程では、遺伝子のスイッチだけでなく、エピジェネティックな情報も大きく組み替えられます。エピジェネティクスとは、DNAの配列を変えずに遺伝子の働き方を調節する仕組みです。
生殖細胞では、体細胞で蓄積されたDNAメチル化などの化学的な目印が広範囲に消去されます。この初期化は、次の世代へ遺伝情報を受け渡す準備として重要です。
研究グループは、作製した細胞の遺伝子発現とエピジェネティックな状態を、胎児期や成人期の精巣から得られた生殖細胞のデータと比較しました。その結果、細胞が始原生殖細胞様の状態から、胎児期の前精原細胞を経て、精原細胞に近い状態へ進む過程が確認されました。
これは、培養細胞に特定のマーカーが現れただけではなく、発生の時間軸に沿った変化を再現したことを意味します。ヒトの生殖細胞発生は、実際の組織を継続的に観察することが難しいため、こうしたモデルは発生機構を調べる手段になります。
一方で、作製された細胞は減数分裂を完了していません。減数分裂とは、染色体数を半分にし、精子や卵子に必要な遺伝的組み換えを行う特別な細胞分裂です。
そのため、今回の細胞は受精に利用できる成熟精子ではありません。外見的な形態、運動能力、染色体構成、受精能力を備えた精子が作られたと解釈することはできません。専門家も、今回の成果は精子形成の初期段階を再現した研究であると評価しています。
アカゲザル細胞が臨床研究との距離を測る
研究グループは、ヒトiPS細胞だけでなく、アカゲザル由来のiPS細胞でも同様の分化誘導を試みました。アカゲザルはヒトに近い霊長類であり、生殖細胞の発生や精巣環境にも、マウスとは異なる共通点があります。
将来、人への応用可能性を検討する場合、培養細胞だけでは安全性や機能を十分に評価できません。しかし、ヒト由来の生殖細胞を使って受精や出生を確認する実験には、重大な倫理的・法的制約があります。
非ヒト霊長類の細胞を使ったモデルは、ヒト細胞で得られた知見が霊長類にも共通するのかを調べる橋渡しになります。今回の研究では、アカゲザルiPS細胞からも、胎児期の生殖細胞段階を経て精原細胞や分化型精原細胞に近い細胞が誘導されました。
ただし、アカゲザル細胞でも成熟精子の作製には至っていません。今回の成果は、霊長類に共通する発生経路を再現できる可能性を示したものであり、生殖機能を回復させた研究ではありません。
それでも、ヒトと非ヒト霊長類を同じ研究枠組みで比較できる点には意義があります。特定の遺伝子変異がどの段階で精子形成を止めるのか、薬剤や環境因子が発生過程へどう影響するのかを調べる基盤になるためです。
男性不妊の中には、精子が作られない原因を特定できない例もあります。患者由来iPS細胞から生殖細胞を誘導し、正常な発生過程と比較できれば、病態が生じる段階を細胞レベルで検討できる可能性があります。
男性不妊研究を変えるモデルと、治療との距離
今回の技術がまず役立つと考えられるのは、精子を作る治療ではなく、男性不妊の研究モデルです。ヒトの精巣内で起きる初期発生を体外で再現できれば、これまで観察しにくかった細胞変化を追跡できます。
たとえば、無精子症に関連する遺伝子変異を持つ人からiPS細胞を作り、生殖細胞への分化がどの段階で止まるかを調べる研究が考えられます。候補薬や環境化学物質が生殖細胞へ与える影響を、ヒト由来細胞で評価することにもつながります。
将来的には、がん治療などによって精子形成能力を失った人の体細胞から、生殖細胞を作製する構想もあります。しかし、現在の技術はその段階にはありません。
成熟精子を作るには、減数分裂を正確に完了させ、染色体数を半分にする必要があります。さらに、遺伝的組み換え、DNAメチル化、ゲノムインプリンティングなどが正常であることも確認しなければなりません。
ゲノムインプリンティングとは、父親由来と母親由来のどちらの遺伝子かによって働き方が異なる仕組みです。この制御に異常があれば、受精後の胚発生や出生後の健康へ影響する可能性があります。
成熟したように見える精子が得られたとしても、それだけで臨床使用はできません。受精能力、胚の発生、出生した個体の健康、次世代への影響まで含む長期的な検証が必要です。
今回の研究を「血液から精子が作られた」と表現すると、研究段階を大きく誤解させます。正確には、体細胞から作製したiPS細胞を、成熟精子より前の精原細胞段階まで誘導した成果です。
体外配偶子形成が社会に問いかけるもの
iPS細胞から精子や卵子を作る研究は、体外配偶子形成と呼ばれる領域に含まれます。この技術は、不妊の原因解明や生殖細胞の発生研究に新たな手段をもたらす一方、通常の細胞治療とは異なる課題を抱えています。
作製された生殖細胞の遺伝情報は、治療を受けた本人だけでなく、将来生まれる子どもや、その次の世代へ伝わる可能性があります。そのため、安全性評価では、細胞を移植した本人への影響だけを確認すればよいわけではありません。
また、どのような医学的目的で使用を認めるのか、提供者や生まれる子どもの権利をどう守るのか、保存された細胞を誰が管理するのかといった倫理的・法的な検討も必要です。
今回の研究では、成熟精子の作製、受精、胚形成、妊娠、出生のいずれも行われていません。したがって、生殖補助医療へ直ちに応用できる成果ではありません。
それでも、ヒト生殖細胞が精原細胞へ成熟する過程を、研究可能なモデルとして再構成した点は重要です。生殖細胞の発生異常を分子レベルで調べられるようになれば、男性不妊を一つの状態として扱うのではなく、発生が止まった段階や原因に応じて分類できる可能性があります。
iPS細胞研究は、失われた細胞を補う再生医療だけにとどまりません。人の発生を再現し、病気が生じる瞬間を観察する技術としても発展しています。
今回の成果は、成熟精子の完成ではなく、そこへ至る複雑な道筋の一部を再現したものです。臨床応用を急ぐのではなく、科学的な再現性、安全性、倫理的妥当性を一段ずつ確かめることが、体外配偶子形成を適切に発展させるための前提になります。
[出典]
- Cell Stem Cell
Generation of spermatogonia from human and non-human primate pluripotent stem cells
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1934590926002298 - DOI
https://doi.org/10.1016/j.stem.2026.06.001 - PubMed
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/42431197/ - University of Pennsylvania School of Veterinary Medicine
New Penn Vet Research Moves Science Closer to a Solution to Male Infertility
https://www.vet.upenn.edu/new-penn-vet-research-moves-science-closer-to-a-solution-to-male-infertility/ - Science Media Centre
Expert reaction to study attempting to generate spermatogonia from human and macaque pluripotent stem cells in the lab
https://www.sciencemediacentre.org/expert-reaction-to-study-attempting-to-generate-spermatogonia-from-human-and-macaque-pluripotent-stem-cells-in-the-lab/ - DongA Science
VUB and Columbia University advance frozen testis and AI sperm recovery for male infertility
https://www.dongascience.com/en/news/79093 - BioScience
Human Sperm Grown in Mouse Kidney Marks Step Toward New Infertility Therapies and Ethical Debate
https://www.bioscience.com.pk/en/subject/biotechnology/scientists-inch-closer-to-creating-human-sperm-in-the-lab


