1. 難治性乳がん、膵がんに有効な医薬品候補を開発
慶應義塾大学は、医学部臨床研究推進センター、医学部、神奈川県立がんセンター臨床研究所、ナノ医療イノベーションセンター、東京大学医科学研究所先端医療開発推進分野、北海道大学遺伝子病制御研究所のメンバーによる共同研究グループが、乳がん、および膵がんの治療について、あらたな医薬品候補の開発成功と、医師主導治験(第I相)についてプレスリリースを行いました。
この内容は、国際学術誌である『International Journal of Cancer』に掲載されたもので、乳がん、膵がんの治療に大きな影響を与える成果であると評価されています。
乳がん、膵がんでは、転写因子であるPRDM14という遺伝子の発現が上昇しています。
この遺伝子は、乳がんと膵がんを治療する際のターゲットとなっており、創薬の研究が盛んに行われています。
この遺伝子の配列を標的とし、配列特異性の高いキメラ型siRNAをがんの部位に届けるYBC(Y-Shaped Block co-Polymer)の開発にこの研究グループは成功しました。
このような分子は、核酸医薬候補とされ、再発乳がん患者に対する医師主導治験(第I相)が進行中である事も同時に発表されています。
2. PRDM14分子とは
すでに亡くなられてしまいましたが、札幌医科大学の豊田実博士が乳がんではPRDM14遺伝子の発現が、健康な細胞、他臓器のがん細胞と比べて高くなっていること発見しました。
その後PRDM14の研究が進められ、乳がんだけでなく膵がんでも発現が高くなっていることが発見され、抗がん剤耐性、転移・浸潤能力、血管新生などのがん幹細胞形質と呼ばれる能力を腫瘍細胞に与えることが明らかになりました。
さらにPRDM14は、他の遺伝子の発現を誘導する「転写調節因子」であったため、乳がん、膵がん治療薬の創薬ターゲットとなる可能性が高いと考えられ、これをきっかけに創薬研究が始まりました。
この研究グループは、目標に「切除による治癒が見込めない患者を対象として、静脈注射によって全身投与して治療が可能な核酸医薬の開発」を設定し、研究を行いました。
着目されたのは、東京大学大学院理学研究科で開発されていたキメラ型siRNAです。
siRNAは、人工的に合成されたRNAで、標的となる遺伝子に結合する配列で作られています。
このsiRNAが標的の遺伝子に、この場合は標的のRNAに結合すると、RNAは2重鎖となります。
体内では、DNAが2重鎖になっていることは知られていますが、体内では2重鎖のRNAの存在は許されず、すぐに分解されてしまいます。
このメカニズムを利用して、発現して欲しくない遺伝子を標的としたsiRNAを使えば、その遺伝子のRNAが分解されてしまうため、その遺伝子の機能が発揮できなくなります。
もしこの遺伝子ががんの原因遺伝子であれば、この遺伝子を標的とすることによってがんの原因遺伝子を潰すことができるという理屈が成り立ちます。
東京大学大学院理学研究科で開発されたキメラ型siRNAは、ヒトの身体に対して安全性が確保されており、さらに血液中での安定性が高いので、期待できる効果をフルに発揮できることが予想されていました。
さらに、研究グループは、東京大学大学院工学研究科のナノ医療イノベーションセンターで開発されたYBCを使うこととしました。
YBCは、ポリオルニチンとポリエチレングリコールから構成されている分子で、これらの分子は原材料的に人体に対する安全性の懸念がない、さらに血中での安定性が高く、なおかつがんの組織に集積しやすい(集まりやすい)という利点があります。
このような経緯で、まずは核酸医薬品の試作品が完成しました。
3. モデルマウスで効果を発揮
作成した試作医薬品(PRDM14siRNA核酸医薬候補)が本当に治療に効果があるかどうかを試験するために、研究グループは動物実験を行いました。
ヒトの難治性の乳がん、膵がんから樹立されたがん細胞株をモデル動物に移植し、このモデル動物にPRDM14siRNA核酸医薬候補を静脈注射して効果を調べました。
この実験において、乳がん、膵がんそれぞれのモデル動物で、腫瘍の大きさを抑制する効果が確認されました。
さらに、この核酸医薬候補と他の抗がん剤の併用治療を行うと、相乗的な治療効果を示しました。
さらに、がんという疾患において大きな問題となっている遠隔転移のがんに対して効果があるかどうかを実験したところ、転移したがんの大きさが縮小する、またそのモデル動物の生存期間が、投与していないモデル動物と比べて長くなりました。
さらに、YBCが開発される前に用いられていた同様の分子、分岐型PEG-polyと比較すると、少ない投与量で同じ治療効果が得られることも判明しました。
がんに対する化学的治療方法(抗がん剤などの薬物投与による治療方法)で大きなハードルとなる問題の1つに、投与量があります。
がんに対して効果のある化合物は世の中に多数ありますが、その中でがんに対する治療薬となり得る化合物はごくわずかです。
ある程度の化合物であれば、実験室内でがん細胞を死滅させることはそれほど難しくありません。
しかし、治療薬として用いるのであれば、様々なハードルがあります。
まず、人体に対する安全性です。
がん細胞はその個体が元々持っている細胞ががん化したものですので、そのがん細胞を死滅させる化合物であれば、がん化していない健康な細胞に対して影響がある可能性も高くなります。
抗がん剤は一般的に副作用が存在するということはよく知られています。
医療現場で使われている抗がん剤は、がんへの効果とともに、候補として挙がっていた化合物の中で比較的副作用が軽い、制御しやすいものが使われる傾向にあります。
そして次に効果を挙げるために必要な量です。
際限なく投与する、つまり大量投与が可能であれば、多数の化合物ががん細胞に対して効果を示します。
しかし、大量投与すれば人体に悪影響が出る可能性が非常に高くなります。
当然、副作用が出る可能性も高くなり、その副作用によって患者のQOL(Quality of life:生活の質)が低下してしまうおそれが出てきます。
そのため、がんの治療薬としての理想は、「なるべく少ない量で効果を示すこと」、「がんに対する効果以外の人体への影響を最小限に抑制できること」、そして「生産コストがなるべく低く、医療費が高額とならないこと」であるとされています。
今回発表されたこのPRDM14siRNA核酸医薬候補は、抗がん剤としての理想のいくつかをクリアしている、また将来的にクリアできるものとして大きな期待が寄せられています。
4. 再発乳がんに対する第I相試験
非臨床的な安全性試験をクリアしたPRDM14siRNA核酸医薬候補は、2020年の9月から、がん研究会有明病院で、治癒的切除不能(外科的な切除による治癒が見込めない)、または遠隔転移のある再発乳がん患者に対して医師主導治験、第I相試験が進められています。
核酸医薬は、比較的新しいタイプの医薬品です。
化合物の作用を使った抗がん剤と比べると、副作用のリスクは少ないのではないかと期待されています。
新型コロナワクチンとして初めて実用化されたものも、核酸医薬に分類される医薬品です。
新型コロナワクチンに対する副作用については、様々な報道がされ、「副作用が大きいのではないか」と感じている方もいらっしゃるかと思います。
しかし、抗がん剤の副作用については、未経験の方が想像できない症状レベルで起こります。
中には、副作用に対する継続的な投薬が必要なレベルのものもあります。
多くの医薬品では常に、効果と同様に副作用をどのレベルで押しとどめることができるか、副作用に対する治療プランをどうするか、が問題となります。
核酸医薬品はこれらの問題を軽減するものとして期待されており、がんに対しても今回のPRDM14siRNA核酸医薬候補、そして他のがん種に対しても開発が盛んになっています。