神経幹細胞の多様な遺伝子発現と分化能の分子基盤

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不連続な細胞分化過程における連続的遺伝子発現変化

理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター 神経幹細胞研究チームの影山龍一郎チームリーダーらの共同研究チームは、神経幹細胞は未分化であるにもかかわらず、遺伝子発現パターンが分化細胞状態にまで連続的に変化することを発見しました。

 

神経幹細胞の分化とは、未分化の神経幹細胞が特定の機能を持つ神経細胞(ニューロン)やグリア細胞(アストロサイト、オリゴデンドロサイトなど)に変化する過程を指します。

このプロセスは、細胞の特定の機能や形態が発現するようになるための一連の遺伝的および環境的シグナルによって制御されています。

 

神経幹細胞は自己複製する能力を持ち、新しい幹細胞を生成します。

複製された神経幹細胞の分化の主なステップは、分化の第一段階として、神経前駆細胞または神経基底細胞に変化します。

これらの細胞は限定された分化能を持ち、特定のタイプの神経細胞やグリア細胞に分化する能力を有しています。

 

次いで最終分化のステップでは、前駆細胞は最終的にニューロンやアストロサイト、オリゴデンドロサイトに分化します。

ニューロンは電気信号を伝える役割を持ち、アストロサイトは神経細胞のサポートや保護、オリゴデンドロサイトは中枢神経系内でのミエリン鞘の形成を担当します。

 

この分化プロセスは、成長因子、転写因子、細胞外マトリックス、細胞間相互作用などの多くの因子によって厳密に調節されており、脳の発達や再生において非常に重要な役割を果たしています。

 

この研究は、科学雑誌「Developmental Cell」オンライン版に「The Neurog2-Tbr2 axis forms a continuous transition to the neurogenic gene expression state in neural stem cells」のタイトルで論文として掲載されました。

 

この研究の理解のための基礎知識

この研究は神経幹細胞を使った研究のため、やや専門的な知識が理解のために必要です。

 

まず転写因子は、遺伝子に作用してその発現を制御するタンパク質の総称です。

特に、発現量を増やす転写因子は転写活性化因子、発現量を減らす転写因子は転写抑制化因子と呼ばれる。

 

単一細胞RNA配列解析とは単離した1細胞ごとに全遺伝子のRNA発現量の解析を行う手法であり、細胞の多様性や不均一性を見るのに適している。

 

この研究で重要となるのはNotchシグナルです。

隣接細胞間の情報伝達機構で、隣接細胞がDeltaを発現していると、Notchシグナルが活性化し、その結果、Hes1の発現が誘導され、神経幹細胞が維持されます。

Notchシグナルが働かないと、神経幹細胞が枯渇するため、脳は十分に成長できません。

 

非対称分裂は神経細胞独特の細胞分裂現象です。

非対称に細胞が分裂し、異なる2種類の娘細胞が形成される細胞分裂様式で、神経幹細胞は非対称分裂することで、一般に1個の神経幹細胞と1個の中間前駆細胞に分かれます。

 

プロニューラル因子は、神経幹細胞からニューロン分化を促進する転写因子の総称で、この分子も神経細胞独特のものです。

 

この研究では、Nestin-CreERT2;Tbr2 floxマウスという特殊なマウスを使っています。

このマウスでは、Nestin遺伝子のプロモーターから非活性型DNA組換え酵素CreERT2が神経幹細胞に発現します。

 

さらに、Tbr2の遺伝子にflox配列が2カ所挿入されている。抗エストロゲン薬であるタモキシフェンを投与すると、CreERT2は活性型になり、2カ所のflox配列に挟まれたTbr2の遺伝子領域が除去され、その結果神経幹細胞特異的にTbr2遺伝子はノックアウトされます。

 

そしてこの研究に独特な実験手法として、光遺伝学的手法があります。

光照射によって活性が制御されるタンパク質をコードする遺伝子を細胞に導入することで、光によって細胞機能を制御する手法のことです。

この研究では青色光照射で遺伝子発現を誘導できるシステムを用いています。

2時間ごとに青色光を照射することによってNeurog2を2時間周期でパルス状に発現誘導する(振動させる)ことが可能です。

 

 

神経幹細胞とは?

神経幹細胞とは、脳や脊髄などの中枢神経系の神経細胞および支持細胞(グリア細胞)に分化する能力を持つ幹細胞の一種です。

これらの細胞は、自己複製能力を持ち、特定の環境下で神経細胞やグリア細胞に分化することができます。

 

神経幹細胞は、一般的な幹細胞と同様に自己複製の能力があり、この能力によって神経幹細胞の数を維持しています。

加えて多能性を持ち、神経幹細胞は、ニューロン(神経細胞)、アストロサイト(星状膠細胞)、オリゴデンドロサイト(乏突起膠細胞)などの異なる種類の神経系細胞に分化することができます。

 

多能性によって多種の神経細胞に分化する能力は、中枢神経系の再生に重要です。

損傷や病気によって失われた神経細胞を再生する能力が期待されており、神経変性疾患(例えば、アルツハイマー病やパーキンソン病)や脊髄損傷などの治療法の開発が進められています。

 

以前は神経幹細胞が発生期にのみ存在すると考えられていましたが、近年の研究により、成体の脳の特定の領域(例えば、海馬や嗅球)にも神経幹細胞が存在することが明らかになっています。

 

幹細胞は多様な細胞に分化しますが、幹細胞からの細胞分化は不連続に進むことが知られています。

神経幹細胞を例に説明すると、大脳形成過程では、神経幹細胞は細胞分裂を経て中間前駆細胞に分化します。

前者は放射状線維と呼ばれる細長い突起を持ち多分化能を有するのに対して、後者は短い突起のみでニューロン分化能しか持っていません。

 

従って、この2種類の細胞は形態的にも能力的にも異なり、またその中間状態を示す細胞は存在しません。

このため、神経幹細胞から中間前駆細胞への分化は不連続といえます。

 

・幹細胞からの不連続な分化

幹細胞から不連続な細胞分化が起こるメカニズムは複雑で、複数の要因が関与しています。以下にその基本的なプロセスと主要な要因を説明します。

 

・シグナル伝達経路:幹細胞の分化は、外部および内部のシグナル伝達経路によって制御されます。

これらのシグナルは、細胞表面の受容体を通じて伝達され、細胞内の特定の経路を活性化します。

代表的なシグナル伝達経路には、Wnt経路、Notch経路、Hedgehog経路などがあります。

 

・遺伝子発現の変化:シグナル伝達経路の活性化は、特定の遺伝子の発現を誘導または抑制します。

これにより、幹細胞は特定の分化方向に向かって変化します。例えば、特定の転写因子(TF)が活性化されることで、幹細胞は神経細胞や筋細胞、血液細胞などに分化します。

 

・細胞外マトリックス(ECM):細胞外マトリックスは、細胞の分化に重要な役割を果たします。

ECMは細胞に物理的な支持を提供するとともに、成長因子やサイモキン(シグナル分子)を貯蔵し、細胞分化に影響を与えます。

 

・微小環境(ニッチ):幹細胞の分化は、周囲の微小環境(ニッチ)によっても影響を受けます。

ニッチは、幹細胞に特定のシグナルを供給し、その分化を調整します。

例えば、骨髄のニッチは造血幹細胞の分化を制御しています。

 

・エピジェネティクス:エピジェネティクスは、DNAの塩基配列を変更せずに遺伝子発現を調節するメカニズムです。

メチル化やヒストン修飾などのエピジェネティックな変化は、幹細胞の分化に重要な影響を与えます。

これにより、特定の遺伝子がオンまたはオフになり、細胞の分化方向が決定されます。

 

・フィードバックループ・分化過程では、細胞から分泌される因子が自身や他の細胞にフィードバックして分化をさらに促進または抑制することがあります。

これにより、分化の進行が安定化され、不連続な分化が確立されます。

 

これらの要因が相互に作用し合い、幹細胞が特定の細胞型に分化することを可能にしています。不連続な細胞分化は、これらのプロセスの精密な調整と制御によって実現されます。

今回の研究では、このうちシグナル伝達経路におけるある経路が関与している証拠を示しました。

 

研究の意味するもの

神経幹細胞はHes1という転写因子によって、一方で中間前駆細胞はTbr2という転写因子によって維持されます。

最近の単一細胞RNA配列解析では、神経幹細胞が中間前駆細胞に分化する過程で、Hes1の発現量が徐々に減少し、逆にTbr2の発現量が徐々に増加すること、途中でHes1とTbr2との両方を低レベルで発現する細胞も存在することが明らかになりました。

 

これは遺伝子発現パターンが連続的に変化している証拠であり、このように不連続な細胞分化過程で遺伝子発現パターンは連続的に変化するという不一致性がなぜ見られるのかは、よく分かっていませんでした。

今回の研究ではこの謎の一端を明らかにしたものです。

 

神経幹細胞は、未分化状態から分化状態と同じ遺伝子発現パターンを持つことが分かり、今まで考えられていた以上にダイナミックな遺伝子発現動態を示すことが明らかになりました。

 

成体の脳にも神経幹細胞は存在しますが、大部分は休眠状態で加齢とともにその状態から目覚めなくなります。

そのため、休眠状態の神経幹細胞ではダイナミックな遺伝子発現動態が失われていることが知られています。

 

ダイナミックな遺伝子の発現動態を復活させると神経幹細胞は休眠状態から目覚めやすくなり、大人の脳でもニューロンを新たに産生できること(ニューロン新生)が分かっています。

この知見は将来の神経幹細胞を使った中枢神経系の再生医療の技術発展に大きく寄与するものと期待されています。

例えば認知症においてもニューロン新生を活性化することで脳機能の回復が期待できます。

 

この研究における分子基盤の研究は、すぐに医療に応用できるものは多くありません。

しかし、こういった知見の蓄積にブレイクスルーとなる研究が出現すると一気に応用へ向けて技術が進歩します。

難題の1つとされている中枢神経系の再生医療の実現に向けて、この研究が大きなきっかけになると期待が寄せられています。

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