性決定のメカニズム
ヒトを含む哺乳類は、性決定は性染色体構成によって決まります。
ヒトの場合、性染色体がXXの場合は女性、XYの男性となりますが、同じ染色体が2つ、つまり女性のXとXという同じ染色体の組み合わせはホモ接合型、男性のXとYという異なる性染色体の組み合わせはヘテロ接合型と呼ばれます。
一般的に、性染色体の組み合わせは受精時に決定し、その受精卵が分裂して作られる細胞は全て同じ性染色体の組み合わせです。
つまり、受精時に女性の性染色体の組み合わせになればその受精卵からは女性の染色体の組み合わせをもつ細胞しか生まれません。
しかし例外はあり、染色体がXXの組み合わせではあるが生物学的には男性というケースもあります。
とはいえ一般的には性染色体のうち、Yを持っているものが男性ということなります。
ヒトは有性生殖のため、生殖細胞である卵子と精子が必要で、それぞれ女性、男性の体内で作られます。
ヒトの染色体は「2倍体」という表現をされますが、これは体細胞での話であり、生殖細胞は1倍体で、染色体は通常1本しか持っていません。
女性の体内で作られる卵子はX染色体しか持っていません。
一方で、男性の体内で作られる精子は、X染色体を持っているものとY染色体を持っているもの、2つのタイプがあります。
X染色体の精子が受精するかY染色体の精子が受精するのかによって受精卵の性別が決定します。
その後は決定された性別は基本的に不変です。
iPS細胞は分化がリセットされた細胞と表現されますが、この性別はリセットできません。
体内にある幹細胞も、受精成立時の性別決定の支配下にあるため、男性の幹細胞は男性の細胞の性質を持っていますし、女性の幹細胞は女性の細胞の性質を持っています。
幹細胞移植では、女性がドナー、男性がレシピエント(その逆も含みます)の性別不一致の状態では、移植片対宿主病(GVHD:Graft versus host disease)が起こるケースが非常に多くなっています。
移植片対宿主病を引き起こすターゲットの一つとしてマイナー抗原に分類されるY染色体抗原が考えられています。
この研究は自治医科大学などで行われており、加齢と共にY染色体が失われる細胞を研究対象として行われています。
男性の細胞から卵子ができる
加齢と共にY染色体を消失する男性の細胞は知られていましたが、このことを応用した研究が今回紹介する研究です。
雄のマウスからiPS細胞を作成し、このiPS細胞から卵子を作ることに大阪大学の林克彦教授らのグループが成功しました。
作成した卵子は別の雄マウスの精子と受精し、子供のマウスが生まれてくることまでをこの研究グループは確認しています。
つまり、この研究で生まれたマウスは「雌(つまり女性)がいない状態で生まれてきたマウス」ということになります。
有性生殖で増える生物は、基本的に雄と雌のペアが必要ということが鉄則ですが、このマウスはその鉄則に沿わずに生まれてきたということになります。
この研究は、大阪大学と九州大学などで構成されているグループの成果で、イギリス・ロンドン、クリック研究所で開かれたヒト遺伝子編集のサミット会議で発表されました。
研究概要は国際科学誌のNature(ネイチャー)のweb版で報じられており、研究グループのこの論文はこの科学誌に投稿され、現在審査中です。
研究内容
林教授らは、先述したY染色体が加齢に伴って消える細胞に着目しました。
雄マウスの尻尾からiPS細胞を作成し、このiPS細胞を培養し続けます。
長期間培養すると、培養された細胞の中にはY染色体が消失し、X染色体1本だけになった細胞が出現します。
その後、操作によって(特殊な化合物を添加して培養)細胞を処理するとX染色がを2本になります。
この細胞から卵子を作り、別の雄マウスの精子と受精させてできた受精卵630個を複数の雌マウスの子宮に移植すると、7匹のマウスが誕生しました。
いずれも生殖能力があり、特に異常は認められなかったと報告されています。
ヒトにおける生殖細胞に関するiPS細胞を使った研究では、女性の細胞から作ったiPS細胞から卵子のもとになる細胞の作成には成功していますが、卵子の作成にまでは到達していません。
この研究をもしヒトで行うとすれば、問題になるのは寿命の違いです。
ヒトはマウスよりも遙かに長い寿命を持っています。
そのため、長期間に渡る培養が必要であり、その培養期間中に遺伝子異常が発生しやすくなると考えられています。
このことについて研究九チームのリーダーである林教授は、「人の細胞から卵子を作るには、今後10年程度かかるだろう。男性同士で子どもを持つことも理論的には可能になるが、今回の研究成果を人で応用していいかどうかには社会的な議論が必要だ」と述べています。
また、発表の中で、作り出した卵子は質が低く、この技術を人間に安全に活用できる段階ではないとも林教授は述べています。
さらにヒトで実現するには10年以上の時間が必要と予想しています。
様々な倫理的な問題
「男性から卵子、女性から精子を作ることができれば、性別の壁を越えて子どもが生まれるのではないか」というアイデアは、iPS細胞が登場した時期から議論されていましたが、今回の研究で現実味を帯びてきました。
しかし倫理的な問題も存在します。
「生命の萌芽(ほうが)」とされる人の受精卵を人為的操作によって作ることには様々な意見があり、国は様々な指針、寄生を設けています。
国は生殖補助医療の研究に限って遺伝子を操作するなどした受精卵の作製を認める指針を示す一方で、こうした受精卵を子宮に移植することは法律で禁じています。
生命倫理が専門の北海道大の石井哲也教授は、「人間の生殖を新たな領域に導く可能性がある成果といえる。将来は様々な家族や親子の関係ができることになるかもしれず、社会の中で、その是非をよく考えてみる必要が出てくる」と述べています。
不妊治療にとっては大きな進歩である研究ですが、こういった倫理的な問題によって今後様々な議論が起きそうです。
しかし、アメリカ・ハーバード大学医学部のジョージ・デイリー教授は、社会が決断を迫られるのはまだ当分先である、としています。
その根拠は、マウスと比べるとヒトではこの研究を成立させることが難しく、今後さらに研究が必要であることと、その研究における倫理的な問題をどうクリアしていくかが大きな問題として立ちはだかるためです。
林教授らの研究をヒトに応用するためには、人間の配偶子形成、つまり生殖細胞形成の独特なメカニズムに対する理解と研究が不十分であると述べている研究者も存在します。
マウスにおいてでも卵子の質に多くの問題が存在し、不妊治療に使う前にこの問題をクリアしなけれなりません。
社会的問題と倫理的な問題、複合的な問題について
この研究が発展しヒトで可能となった場合、不妊治療は当然ですがもう1つニーズが現れる場所があります。
アメリカでは性的少数者が子供を持つことを望んだ場合に、この研究から発展する技術にニーズが存在のではないかと予想する科学者がいます。
この研究はいきなり新しい事が出てきたというないようではなく、前々から考えられていたことが実現、または実現に向けて大きな一歩を踏み出したものです。
不妊治療においては、代理母出産などの科学的分野以外で様々な問題が存在し、常に議論がされている状態です。
不妊治療の対象者であるカップルの身体への治療、これは治療が成功すれば当事者同士の受精卵が成立するということになりますので、それほどの倫理的な問題は存在しません。
しかしこの研究から発展する技術は、生物学的に子供が産めないカップルでも子供を持つことが可能になる事が予想されるため、今後社会はこの技術の成立を念頭に置いて議論を進める必要があると予想されます。
そして「子供を持つ権利」というものを医学的な見地から議論したときに、「権利を持つカップルはどの範疇なのか、それとも全てのカップルに認めるのか」という問題が出てくることは明白です。
こういった社会を巻き込んだ問題の出現が予想されるということは、今回の研究成果がどれほど大きなインパクトを持つのかがわかります。
この研究は今後、科学的な興味と社会的な興味をもって注視されていくでしょう。