「合成胚」の実験はどこまで認められるのか?

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胚とは

胚とは、多細胞生物の発生段階における初期を指します。

英語ではEmbryoと呼ばれ、胚発生はEmbryonic developmentという用語が使われます。

専門的な言い方をすると、胚は配偶子の融合によって生じます。

配偶子とは一般的にメスの卵細胞とオスの精細胞で、この2つの細胞が融合、つまり受精します。

この受精した段階は接合子とも呼ばれますが、受精した瞬間から胚と呼ぶことが一般的です。

 

ヒトの場合、受精してから9週目までは胚と呼ばれ、9週目以降は「胎児」と呼ばれます。

このように、胚が作られるためには卵細胞(例:卵子)と精細胞(例:精子)という2種類の生殖細胞が必要ですが、iPS細胞株の樹立によって状況が変わってきています。

 

倫理的なブレーキ

胚は受精直後は単一の細胞、そしてそこから卵割(細胞分裂)を経て成長していきます。

この胚は将来生命となるものであり(定義によっては受精直後から生命という場合もあります)、倫理的に使用する際に気を使わなければならないものです。

 

生命科学の研究手法が進歩した現代では、人工的に卵子と精子を使って受精卵を作ることも、その後の卵割を誘導する事も可能です。

これは、人工的に生命を作り出すことが可能ということでもあるため、科学の業界では一般的にヒトの胚を14日以上人工培養することは認められていません。

 

しかしiPS細胞を使えば、生殖細胞がなくても胚を作ることが可能です。

なぜなら、iSP細胞は基本的に全能性を持つとされているため、iPS細胞の培養条件によっては、またiPS細胞から生殖細胞を誘導する事によって人工的な胚を作ることが理論的には可能なのです。

 

進む人工胚の研究

近年、研究技術の進歩により、科学者はますます本物に近い胚のような構造物を作ることができるようになりました。

2023年に、中国の科学者たちは、Blastoid(ブラストイド)と呼ばれる構造体を研究室で17日間かけて開発したことを発表しました。さらに、そのうちのいくつかをサルの子宮に着床させ、妊娠の最初の兆候を起こさせることにも成功しました。

 

着床したBlastoidは長く生存することはできませんでした。

これは通常の胚が発達する環境を完全に模倣しきれていなかったと予想されています。

しかしこれは一時的なことで、現在の研究技術の進行速度を考えると、この模倣をクリアするのは時間の問題です。

そうなると、幹細胞で生存可能な胚や機能的な胎児、そして出産にまで到達できる技術ができた場合、胚と同じようにBlastoidを扱うべきかどうかと問題について早急に答えを出す必要があります。

 

2017年にはMITテクノロジーレビューで、「人工胚が登場しようとしているが、それを使って何をなすべきか?」という記事が掲載され、2018年には胚様構造体が実際に作成できるようになり、この技術が2018年度版のブレークスルー・テクノロジー101つとして取り上げられています。

これだけの速度で進む研究技術の進歩に対して、倫理的な議論とボーダーラインを早急に決めることが研究現場から求められています。

 

1984年に英国政府の委員会が推奨した「受精後14日を超えてヒトの胚を研究室で培養してはならない」というルールが現在の基本ルールとされており、アメリカを含む12ヶ国の法律に規定されています。

この14日の根拠の一つは、胚が臓器や組織を形成する3層の細胞を形成する直前であるためです。もうひとつは、胚が分裂してクローンを作ることができなくなり、一人の人間として成長する時期であるためです。

 

胚に対する科学者達の考え

オランダのライデン大学で研究するスサナ・チュヴァ・デ・スーザ・ロペス博士は、専門分野が発生生物学であり、この問題と密接に関わる研究をしています。

彼女は、「15日目の胚には、脳のごく初期とも言える前駆体が存在するという研究者もいます。しかしその前駆体と呼ばれる構造は一週間後も前駆体のままです。その一週間後にもその前駆体は脳になりません。つまり、前駆体があるから・・・という議論はナンセンスかもしれません。」と述べています。

 

前駆体の存在でその胚が倫理的なラインにかかるとすれば、前駆体の定義が明確でなければなりません。

前駆体の定義においては、性質自体の定義ははっきりとしているのですが、分化のどのくらい前からを前駆体と呼ぶのかについては何も決められていません。

法整備、定義の明確化が議論されている途中で、つまり決められていない状況で「人工胚」を作成する技術が進化したために、あちらこちらでグレーゾーンが出てきてしまい、そのことが現場に議論と混乱を招いています。

 

国際幹細胞学会(ISSCR:International Society for Stem Cell Research)では、数年前にこの14日ルールの緩和を提言しました。

完全禁止の現状から、倫理的にも法律的にも見直しの議論が必要であるとする提言です。

しかしこの提言は両刃の剣です。

宗教的、または自らの道徳的にこうした研究技術の進歩に対して批判的な人達は少なからず存在します。

そして議論をしようとした場合、科学者による論理的な理屈よりも道徳的な意見の方が人には受け容れられやすくなっています。

また、生命科学の基本知識が必要とされるこの議論では、多くの人が新たな学習をして議論に参加するよりも、今自分が持っている知識と思考で参加しようとします。

多くの研究者達が思考をかさね、トライアンドエラーを繰り返しながら進めているこの研究分野の理解をするためにはそれでは当然不十分です。

 

そのため、どうしても幹細胞関連の議論では感情論が大きな声となり、様々な規制が作られることとなります。

当然規制は必要ですが、それが声が大きい人達に忖度したラインで決められるために、実際の研究では非常にやりにくい規制になっていることは否めません。

 

ラインが難しいBlastoid

Blastoidの場合、「何日目までならば使ってよい」という期間を決定することは非常に難しい問題です。

これはトロントのHospital for Sick Children所属の発生生物学者であり、国際幹細胞学会の運営委員であるジャネット・ロザント博士が提起した問題です。

「人間の胚の場合、精子が卵子との受精に成功した瞬間から時計の針を動かせばいいのですが、幹細胞から胚盤胞を作る場合はこのような明確なキッカケが見つかっていません。そのため、いつからカウントすればよいのか?については議論が必要なのです。つまり人工胚の発生生物学においては、“ゼロ”が決まっていないのです。」

 

さらに、幹細胞由来の構造体がどの程度胚に似ているかということモ問題です。

もしBlastoidがあまりにも胚に似ているのであれば、ヒトの胚の研究を規制するのと同じように、ブラストイドを使った研究も規制されるべきであると考える人が多いのですが、似ているというラインも現在は研究者によってまちまちです。

 

これは研究者にとって二律背反な問題です。

Blastoidがもし胚に似ていなければ、多くの規制を受けずに済むかもしれませんが、研究に使っている根拠が弱くなります。

もし似ているとしても、規制を逃れるために「似ていない」として規制をクリアして研究に使ったとしましょう。

研究成果が出て、それを論文などに発表するとなれば「ヒトの胚に似ている」と言わなければならなくなります。

なぜなら、「ヒトの胚に似ているからこそ、その人工構造物を研究に使う価値があるのだが、研究者自身が似ていないとするならば、なぜ使ったのか?」という批判が必ず出るからです。

 

ロンドン・クリック研究所のナオミ・モリス博士は、「我々はまず、胚とは何かについて合意する必要があります。精子と卵子の融合によってのみ生成されるものなのか、構成している細胞の種類、構造に関係するものなのか?これらについて研究者達のコンセンサスが必要です。」と述べています。

生命科学、倫理、法律の専門家によって議論されるべきこの問題は、科学的な見地から議論されなければならないのですが、自分の倫理観と感情論で議論に加わっている人々も少なくありません。

こうした議論は常に、新しい技術が出る度に行われたものとも言えますが、「多様化」などの言葉が一般的になりつつある現代で、どのような結果となるかはまだ見えてきていません。

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