iPS細胞の活用先は人だけじゃない!イヌiPS細胞がもたらす多様な可能性

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人に限らないiPS細胞の利用

iPS細胞のように、体を構成するほとんど全ての細胞に分化できる細胞を多能性幹細胞と呼びます。 総じて幹細胞と呼ばれる場合が多いのですが、幹細胞の中には分化する細胞が限定されているものもあるため、全ての細胞に分化できる幹細胞にはこの名前がつけられています。 iPS細胞は基本的に全ての細胞に分化することが可能であり、この細胞が画期的な理由は、分化した細胞に手を加えることによって分化前の細胞にするという点です。 つまり、ヒトの細胞を採取して手を加えれば理論的には分化前の状態に戻ったiPS細胞が可能です。 このiPS細胞に代表される幹細胞の研究は、やはり再生医療との関係からヒトについての研究が多く目に入ってきます。 一方で、ヒト以外の動物でも幹細胞の研究は少なくありません。 獣医学分野では、免疫調整機能を整えるために、体の中にある細胞をそのまま投与するという治療が行われています。 特にイヌ、ネコではよく使われています。 しかしこの治療は多能性幹細胞が使用されているわけではなく、体の中にある幹細胞を治療に利用しようというものです。 この治療方法を発展させ、iPS細胞を活用した「獣医学の再生医療」が近年盛んに研究されています。

イヌで行われているiPS細胞研究

イヌのiPS細胞の研究も実は随分前から進められており、切除した皮膚の線維芽細胞などからの作製には成功していました。 しかし元となる細胞を入手するには、大きなハードルがあります。 iPS細胞を作製するために、麻酔を使って皮膚細胞の採取を行います。 これは「動物実験」の範疇に入るため、日本の動物実験における規制をクリアしなければなりません。 日本では、文部科学省告示の「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」と、 厚生労働省の「厚生労働省の所管する実施機関における動物実験等の実施に関する基本指針」に従って、動物実験を実施する機関は「動物実験委員会」を設置し、実験者から提出された実験計画書の審査を行い承認が必要です。 ヒトの場合も厳しい規制の下に行われていますが、ヒトの場合は言語で説明し、当事者の承諾を得ることができます。 しかしイヌ、ネコの場合は承諾を得ることはできません。 そのため、倫理的な面から慎重にならざるを得ません。 さらに、イヌの場合は品種改良が進んでいることによって遺伝的な多様性があり、経済学的な理屈でこの研究を行うと、特定の犬種のiPS細胞研究のみが進むということになります。

採取が容易な細胞であればiPS細胞作製のハードルは下がる

この問題に取り組んでいるのが、大阪公立大学大学院生命環境科学研究科、獣医学専攻の鳩谷晋吾教授です。 主な研究テーマは、ネコ体外受精方法の確立およびES細胞株の樹立、間葉系幹細胞を用いた難治性内科疾患の治療などです。 近年、注目を浴びた研究としては、イヌの血液細胞からイヌiPS細胞の作製に成功し、細胞生物学系の学術雑誌「Stem Cells and Development」に掲載されました。 鳩谷教授は、もし血液細胞からiPS細胞が作れるようになれば、検査時の血液の一部を分けてもらえば作製に必要な細胞を確保でき、飼い主さんの細胞提供への同意も得やすいと考え、血液細胞からiPS細胞を作る研究を進めていきました。

これまでのイヌを使ったiPS細胞研究と鳩谷教授の研究

イヌのiPS細胞作製は、繊維芽細胞を使った作製方法が報告されていましたが、成功率は高いものではありませんでした。 初めてイヌの細胞でiPS細胞作製に成功して以来、作製方法の改良によって作製効率、作製成功率を上げようとする試みは行われてきましたが、現在でも成功確率はそれほど高くありません。 この状況で血液細胞からiPS細胞を作製するというアイデアは、成功率という面ではそれほど期待されていませんでした。 iPS細胞を作製するためには、細胞が分化した状態から未分化の状態、つまり初期化をしなければなりません。 iPS細胞を初めて確立した山中伸弥教授は、Oct3/4、Sox2、Klf4、C-Mycの4つの分子(山中4因子)を分化した細胞に導入することによって細胞が初期化されることを示しました。 イヌの繊維芽細胞でiPS細胞を作製した場合でも、この山中4因子を遺伝子導入してイヌのiPS細胞を作製する方法を採用しています。 効率は悪いのですがこの方法でとりあえずは作製できていたのですが、血液細胞に山中4因子を導入してもiPS細胞を作製することはできませんでした。 ここでおさえておくべき知識は「iPS細胞の生育環境はヒトとマウスでは異なる」という事実です。 ヒトのiPS細胞とマウスのiPS細胞では使う培養液が異なり、今回の研究ではまずマウスのiPS細胞に近い環境が適していると予想して着手しました。 研究を重ねた結果、イヌの場合はヒトのiPS細胞に近い環境の方が良いことはわかりましたが、ヒトと同じ条件で完全に成功したという結果を得ることはできませんでした。 鳩谷教授らのグループはそのような状況をクリアして今回の研究成果にいたったわけですが、研究の詳細を見てみましょう。 まず、鳩谷教授らはイヌ血液細胞であり、血液から分離された単球とリンパ球を含む末梢血単核球を使っています。 この単核球に欠損持続発現型センダイウイルスベクターで遺伝子を導入しています。 ベクターとは、遺伝子を細胞内に導入するために必要な遺伝子の運搬役です。 使ったベクターはSeVdp(KOSM)302Lという種類の欠損持続発現型センダイウイルスベクターで、このベクターに山中4因子、Oct3/4、Sox2、Klf4、C-Mycを組み込んで細胞に導入しています。 ここまではヒトのiPS細胞作製と同様の手法ですが、この方法に加えて鳩谷教授らのグループは複数の低分子化合物を添加しました。 この方法で得られた血液細胞由来のイヌiPS細胞は、内胚葉、中胚葉、外胚葉の3胚葉に分化することが可能であり、ヒトiPS細胞と同様、そして作製効率の上昇も実現しました。

イヌiPS細胞がもたらすもの

この研究成果であるイヌiPS細胞は、獣医学分野における再生医療の促進をもたらすと考えられます。 まず、イヌ、ネコなどの輸血環境の改善です。 ヒトの場合でも輸血のための血液は不足していますが、イヌ、ネコなどのペットではさらに不足しています。 ペットの腫瘍の手術では輸血が必要になるケースが多いのですが、血液不足から手術が実施できないなどの厳しい状況になることは少なくありません。 しかしイヌiPS細胞から赤血球を作ることができればその状況を大きく改善することができます。 さらに、多様な犬種、患者犬からもイヌiPS細胞を作りやすいというのも血液細胞を使うメリットです。 血液検査で得られたサンプルから簡単に作ることができるため、多くのイヌからiPS細胞を作ることが可能です。 これは治療だけでなく、獣医学分野の研究にも大きく貢献することが確実です。 遺伝子疾患の研究や再生医療に活用できるのはもちろん、疾患のモデル化や創薬など、さまざまな動物医療に貢献できる可能性があります。 また、実験動物として利用される動物を減らすことにもつながります。 これは獣医学分野だけでなく、実験動物を使用する多くの研究分野にも重要なことです。 鳩谷教授らのグループは、今後の目標として安定供給のための培養条件の絞り込みによって効率と精度の向上を目的にしています。 また、研究グループはネコのiPS 細胞を作製する研究も並行して進めています。 高齢のネコはかなりの割合で、慢性腎臓病に苦しんでいます。 ヒトにおいては、ES細胞やiPS細胞を使ってオルガノイドというミニ臓器を作る研究が盛んになってきており、この技術を使ってネコの小さな腎臓を作ることができれば、なぜ慢性腎臓病になるのかといった病気の解明にも活用できます。
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