重症脊髄損傷の治療に光 iPS由来細胞移植による「複合治療」で世界で初めて運動機能など改善

目次

脊髄と脊髄損傷

脊髄とは、ヒトなどの脊椎動物の脊椎の内側に存在するニューロンと神経繊維の集合体です。

脊椎は一般的に「背骨」と言われているもので、この脊椎の中には脊椎管が存在しており、その中の髄膜の内側が脊髄の正確な場所です。

 

脳と末梢神経をつなぐ神経は2つ存在し、1本は脳から直接出ている脳神経と脊髄です。

脊髄は脊椎管の中から脊髄神経の枝を何本も出しており、末梢神経と脳の橋渡し役を担っています。

 

この脊髄が損傷する原因は、交通事故などの外傷が中心です。

脊髄損傷が起こると、程度にもよりますが損傷部以下の運動、知覚、自律神経系の麻痺が起きます。

日本では毎年約5000人の新規患者が発生しており、現在累計で10万人から20万人、そのうちの大多数を慢性期の完全脊髄損傷患者が占めています。

 

脊髄損傷は現時点で有効な治療方法が確立されておらず、動物実験でも脊髄損傷を治療する方法はありません。

脊髄を含む中枢神経系は末梢神経と異なり、一度損傷すると修復、再生されることはなく、リハビリなどで動かせる場所を動かしながら生活を送らざるを得ないという状況です。

脊髄損傷の詳細

脊髄損傷は損傷の度合いによって、完全型と不完全型に分かれます。

完全型は脊髄が離断してしまい、神経伝達機能が完全に断絶した状態で、不完全型の場合は離断はしていないが一部が損傷、圧迫を受けて一部機能が残っている状態です。

 

完全型の場合、損傷部位から先、末梢に向けての方向は、上位中枢からの支配を失うため、脳からの運動命令は届きませんし、末梢から上位中枢へ感覚情報を送ることもできなくなります。

この状態は、動かない、感じないという状態であり、これを「麻痺」と表現します。

とはいえ、全く感じなくなるわけではなく、受傷部位には疼痛などの後遺症が残ることが多く、さらには足が伸びている状態でも曲がっているように感じられる、しびれなどの異常知覚、肢体切断の時に見られる幻肢痛、ファントムペインを感じることもあります。

 

受傷してから時間が経過すると、慢性期という状態になります。

この状態は、動かせないはずの筋肉が本人の意思とは無関係に突っ張ったり、痙攣を起こすこともあります。

 

これらは感覚、運動についてですが、自律神経系も大きな影響を受けます。

麻痺している部分では代謝が不活発になり、外傷が治りにくくなったり、汗をかく、血管を収縮・拡張するという自律神経系に支配されている機能も障害を受けます。

そのため体温調節に代表される恒常性の維持に問題が出てきます。

幹細胞を使った脊髄損傷と脳梗塞の治療

脊髄損傷と同様に、身体の運動機能などに麻痺が出るものとして脳梗塞が挙げられます。

これらの治療に幹細胞を使おうとする動きはかなり前から行われていました。

 

現在、医療機関では脊髄損傷、脳梗塞に対して自分の身体から間葉系幹細胞などを採取して移植することによって神経系の再生を狙う治療をしている所がいくつかあります。

ただし、現時点では誰もがその治療で回復するというわけではなく、回復する人もいれば回復しない人もいる、そして回復の度合いも患者によって異なるという状況です。

 

多少不完全な治療であっても、深刻な副作用が見られず、確率は低くても回復する患者がいるようなケースでは、こういった幹細胞の治療が認められる場合があります。

脊髄損傷は現在まで治療方法がなかった、そしてもし低い確率の治療であったも少ないとはいえ回復する患者がいれば、やはり治療として行うことが国民の利益になります。

 

脊髄損傷、脳梗塞からの回復を幹細胞治療によって行えるようにするための研究は、日本だけでなく世界中の多くの研究チームが取り組んでいます。

慶應義塾大学の岡野栄之教授らのグループも以前から脊髄損傷の治療に幹細胞を使う研究を実用化しようとしていたグループです。

 

岡野栄之教授は、専門分野は分子神経生物学、発生生物学、再生医学で、現在は慶應義塾大学教授、元大阪大学医学部教授です。

現在までに、中枢神経損傷の拡大を抑制する細胞機能の解明、子宮筋肉に存在する幹細胞の発見などの大きな業績を挙げています。

 

2021年には「亜急性期脊髄損傷に対するiPS細胞由来神経前駆細胞を用いた再生医療の臨床研究」において、最初の症例の細胞移植を実施しています。

これは、「脊髄損傷患者に対してヒトiPS細胞由来神経前駆細胞の世界初の移植手術」です。

 

この手術を行った研究チームは、小動物を使った非臨床試験で移植の検討をまず行いました。

この条件検討の研究で安全性を確認後、条件検討によって算出された細胞数をヒトに移植しました。

プレスリリースでは、この手術によって治療上の有効性が認められる可能性もあるが、今回の臨床研究の主目的は、「小動物で安全が確認された条件がヒトにおいても安全なのか?」の確認であるとしています。

 

このことからもわかるように、脊髄損傷に対してのiPS細胞移植手術は、現時点では安全性の確認を主目的として行っており、治療効果を主目的とした臨床試験は行われていないのが現状です。

 

一方で、研究チームは治療効果を高めるための研究も行っており、最近発表された研究成果では、運動機能と排尿機能の回復に世界で初めて成功しました。

これは、ヒトiPS細胞由来の神経幹細胞を移植する際に、細胞が患者の身体に生着する確率を高めるための治療を同時に行うというものです。

 

これまで慢性期の脊髄損傷患者の回復は困難とされていましたが、この臨床試験の結果によって、新しい治療方法が開発される可能性が高くなりました。

 

先ほど紹介した岡野教授の研究は、「亜急性期」の症例でした。

亜急性は脊髄損傷後2週間から4週間の期の症例で、症状自体がまだ固定していない段階です。

それ以降は慢性期とされ、この段階になると「完全脊髄損傷」の患者では炎症反応が続いたり、治癒するときに生じる結合組織が現れたり、脊髄の空洞化によって機能改善が見込めなくなります。

この状態の患者に幹細胞を移植しても、生着率が非常に悪いために治療効果が得られない状況が何年も続いていましたが、今回の研究成果はそれを打破する研究成果です。

治療方法の詳細

治療方法の開発はラットで行われており、神経保護作用などの機能を持つ幹細胞増殖因子と、外傷、熱傷に対して人工真皮として臨床で使われているコラーゲンスキャフォールドを組み合わせて完全脊髄損傷ラットの損傷部に投与し、再生が阻害されている脊髄環境を改善させるものです。

 

この環境改善によって、ヒトiPS細胞由来神経幹細胞、前駆細胞の移植が効果を発揮するかどうかを試験したことがこの研究の柱です。

 

コラーゲンスキャフォールドは、実験室内で人工臓器に近いオルガノイドを作る時にも使われることがありますし、すでに研究目的だけでなく臨床でも使われている細胞にとって人工的な足場となる素材です。

このコラーゲンスキャフォールドを損傷部に幹細胞増殖因子と共に投与すると、血管新生の促進、炎症反応の改善、脊髄空洞化の減少など、脊髄環境の修復に成功しました。

この結果、移植した幹細胞から作られる神経細胞の生着率が向上し、新しい神経回路の構築効果が増強され、その結果ラットの運動機能と排尿機能が改善されたのです。

 

現時点ではラットを使った動物実験での成功ですが、近年の再生医療開発のスピードを考えると、今回のラットでの結果がヒトに応用されるのもそう遠い未来ではありません。

日本における脊髄損傷の受傷原因は、40 %以上を交通事故が占め、次いで高所からの落下、転倒、打撲・何かの下敷き、そしてスポーツとなっています。

つまり、全ての世代において脊髄損傷を受傷する可能性が平等にあると考えてもよい状況です。

 

これまでは、脊髄を損傷するとその後の人生は何かしらの障害と共に生きなければなりませんでしたが、近い未来ではある程度の回復は確実、生活の質(QOL)をそれほど落とさなくても日常生活が送れるまで回復する時代がやって来るでしょう。

目次