1. 老化細胞を人工的に再現する
様々な生命現象を研究する際に、モデル生物、モデル細胞が存在するか否かは研究の進捗に大きな影響を及ぼします。
ヒトの疾患を研究する場合、その疾患の患者から得られるデータは貴重なのですが、解析する患者数、または倫理的な問題などで、症例数を集めることは簡単ではありません。
その解決策として、モデル生物、モデル細胞というものが存在します。
例えばがん細胞は、様々な臓器のがん細胞が培養細胞化されており、保存している機関から購入が可能です。
購入したがん細胞は、培養で増殖させることができるため、一度購入すればそのがん細胞を増殖させてしばらくの間は研究をすることができます。
培養がん細胞は1つのモデル細胞ということができますが、ヒトと同じ哺乳類に属するマウス、ラットを使ってヒトの疾患をそのマウス、ラットで誘導し、研究するという手法もよく使われます。
モデル、という観点では、まず培養細胞から始まったモデル系が、遺伝子操作、遺伝子編集技術の発展によってマウス、ラットをモデルとして使うというところまで発展し、最近では幹細胞を使ってモデル系を構築するという技術が進歩しています。
例えば、先天的な疾患を研究するために、その疾患の原因遺伝子を持つ患者から体細胞を採取し、iPS細胞を構築します。
このiPS細胞を、肝臓が原因の疾患であれば肝臓細胞、脳であれば神経細胞に分化誘導し、その原因遺伝子がどのようなメカニズムで疾患を起こしているのか、どの化合物が薬として可能性があるのかを研究するという手法です。
資生堂は、再生医療研究の知見を利用して、真皮の老化細胞モデルを構築したことを発表しました。
このモデルは、老化細胞だけでなく、老化細胞が周囲の細胞のどのような影響を与えるのかについても解析ができるモデル系です。
2. 資生堂の研究力
資生堂は、化粧品で世間一般によく知られていますが、元々は調剤薬局を始まりとしています。
1872年(明治5年)に、福原有信氏が東京・銀座に資生堂薬局を創業したのがその始まりです。
現在では、化粧品事業を中心にして、トイレタリー事業、ヘルスケア事業、医療用医薬品などのフロンティアサイエンス事業を展開しています。
研究部門としては、1939年(昭和14年)に設立された資生堂化学研究所を皮切りに、様々な分野の研究所を設立しています。
特に化粧品を得意としている企業ため、皮膚の老化研究には力を入れており、1989年(平成元年)には、ハーバード大学と共同でマサチューセッツ総合病院内に「ハーバード大学皮膚科学研究所」を設立しました。
この研究所には、ハーバード医科大学を中心に、生命科学の各分野で研究する先端の研究者を招聘しています。
3. 老化細胞モデル作成の背景
資生堂だけでなく、美容に関わっている企業にとって皮膚の老化は大きなビジネスとなる分野であり、各社が力を入れている分野です。
そうなると当然競争は激しくなりますが、資生堂はその競争の中で皮膚老化に関する研究を長期間に渡って行い、肌の幹細胞である真皮幹細胞が見た目の老化を改善する仕組み、免疫細胞が皮膚内の老化細胞を排除する仕組みなどの老化機構の解明を行っています。
しかし、研究に必要な老化細胞は、ヒトの皮膚組織から取り出しても増殖性が低いことから研究に必要数確保することが難しく、実験を行うためには長期間の準備が必要でした。
そんな中で、iPS細胞に代表される幹細胞の研究技術が進歩し、資生堂も幹細胞を使った再生医療研究を2013年に本格的に着手し、ヒトの生体内に近い性質を持つ老化細胞を人工的に作ろうと研究開発を行ってきました。
この研究は、老化細胞そのもののメカニズムだけでなく、老化細胞が周囲の細胞に及ぼす影響についても研究できる細胞モデルを作ろうという目標で行われました。
老化研究では、老化細胞そのものだけでなく、老化細胞の周囲に与える影響までを明らかにしなければ老化の根本にアプローチできません。
まず、細胞の老化現象の一つの原因として、内因性、外因性のストレスがあります。
ストレス、加齢によって老化した細胞は、SASP因子という分子を分泌します。
この分子は、細胞老化随伴分泌現象(Senescence-associated secretory phenotype)によって分泌される分子で、Senescence-Associated Secretory Phenotype、細胞老化随伴分泌現象の頭文字を取ってSASP因子と呼ばれています。
そしてSASP因子の分泌には、NF-kappa B(Nuclear Factor-kappa B)という分子が関わっていることがわかっています。
NF-kappa Bは炎症において非常に重要な働きをする遺伝子転写因子で、刺激が来ると遺伝子の発現を誘導します。
NF-kappa Bは、皮膚の老化を誘導する紫外線などの刺激によって活性化し、SASP因子の分泌を遺伝子発現を介して誘導する事がわかっており、周辺組織に影響を及ぼす場合は、NF-kappa Bの活性化がポイントとなることが予想されています。
4. 資生堂が作り上げたモデル
これらの知見を使って資生堂は細胞モデルを作り上げました。
このモデルは、老化細胞から分泌されるSASP因子などを介して、老化細胞が周囲の細胞に老化を連鎖させる特徴を持つ、真皮老化細胞モデルです。
これまでは、老化細胞とその周囲の細胞の様子、SASP因子が及ぼす影響について、安定的なモデルを使って詳細な観察をすることは不可能でした。
しかし、この真皮老化細胞モデルが資生堂の研究チームによって可能となり、今回の研究発表になったわけですが、資生堂は実際にこのモデルを使って老化メカニズムの一端を明らかにしています。
本来生体は、体内から老化細胞を除去するメカニズムが存在しますが、加齢と共にこの除去システムが衰えると、老化細胞が体内に蓄積されてしまいます。
蓄積された老化細胞は、SASP因子などを分泌して慢性炎症、コラーゲンの分解などを引き起こします。
今回の研究で構築した真皮老化細胞モデルは、細胞サイズが膨張するという肥大化や細胞増殖の停止が誘導されます。
これらは一般的に見られる老化現象ですが、モデルでも再現できたことからこの細胞モデルの有用性が証明されました。
この細胞モデルでは老化マーカーが検出され、炎症性サイトカインなどのSASP因子の発現も確認されています。
そして、近年盛んになっている3次元培養においても、細胞増殖性を停止した状態で長期培養が可能である事から、3次元の皮膚モデルが再現できる可能性もあります。
さらに研究チームは、SASP因子分泌に関わるNF-kappaB産生を抑制する分子の特定にも成功しています。
今回作り出した真皮老化細胞モデルは、有用な化合物のスクリーニングにも適しており、実際のスクリーニングでSASP因子分泌を誘導するNF-kappaB産生を抑制する化合物を発見しました。
この化合物は、センダン科植物の一種であるニーム葉抽出液です。
センダン科は、熱帯から亜熱帯、温帯にかけて分布している植物で、日本では温暖な地域にセンダンが自生しています。
植物油、セッケン、殺虫剤の製造に使われています。
そしてニームとは、インドセンダンの名で知られている常緑樹で、熱帯地方全域に植樹されています。
近年は、その薬効が注目されていますが、臨床研究はいまだに不十分であり、用量を間違えると腎臓、肝臓などの代謝・排泄を司る臓器に悪影響を及ぼす可能性が示唆されています。
今回の真皮老化細胞モデルでの研究でニーム葉抽出物の有用な機能が示唆されましたが、この研究は今後、老化の解明だけでなく、薬効が明確でない化合物、ニーム葉の抽出物の分子メカニズムを明らかにする可能性を持っています。