1. 神経突起生成に新しい知見
慶應大学医学部生理学教室の研究グループは、ヒトiPS細胞から作製したニューロンにおいて、神経突起伸長を誘導するための新しいシグナル経路を発見しました。
再生医療における神経細胞の再生は、脳の障害などを受けた患者の治療に非常に重要なポイントです。
その中で、神経突起の作成は、人工的な神経細胞に本来の機能を持たせるためには必要不可欠であり、技術の確立が急がれています。
神経細胞は、刺激が入力されると活動電位を発生させる事によって他の細胞に情報を伝達するということが基本的な機能です。
神経細胞は3つの部分に分ける事ができます。
細胞核のある細胞体、他の細胞に刺激を出力する軸索、そして他の細胞から入力を受ける樹状突起がその3つの部分であり、樹状突起と軸索は2つをまとめて神経突起とも呼ばれています。
前の細胞の軸索の末端と、後ろの細胞の樹状突起の間の情報伝達は、非常に狭い隙間をもつシナプスと呼ばれる化学物質による伝達構造が形成されています。
これら神経細胞は、光、機械的な刺激に反応する感覚細胞、そして情報を筋繊維に出力する運動神経の細胞など、いくつかのタイプがあります。
2. 神経細胞の発生
慢性期脊髄損傷の再生医療においては、ニューロンのメカニズム解明が必須ですが、その中で神経突起の伸長メカニズムは重要な位置を占めます。
神経突起の伸長メカニズムの解明は、これまではヒト以外の動物、マウス、ラット、ゼブラフィッシュなどで主に行われてきました。
しかし、ヒトiPS細胞からの神経細胞分化誘導が一般化し、この分化誘導された細胞を再生医療に使おうとすると、ヒトの細胞での解析が必要になります。
ヒトiPS細胞由来神経幹細胞と神経前駆細胞を患者に移植して脊髄損傷再生医療を行う場合、移植された細胞がニューロンに分化した後、患者の残存しているニューロンに対して神経突起を伸ばす事ができなければ治療は成功しません。
このためには、神経突起を伸長するシグナル経路を特定する事が必要ですが、これまでいくつかの研究報告があり、これらを応用して再生医療に活かそうと研究が進められています。
そして今回、新しいシグナル経路が発見されましたが、特筆すべきはこの伸長反応を誘導する化合物も一緒に見つかった事です。
グラム陽性細菌に分類される真正細菌、ストレプトマイセス属は、主に土壌中に生息する細菌で、根菜類に病気を引き起こすものもあります。
このストレプトマイセス属の特徴の1つとして、抗生物質の大部分がここに属する細菌から産生される事が挙げられます。
抗生物質ストレプトマイシンの生産菌である、S. griseus、カナマイシン生産菌であるS. kanamyceticus、中にはS. peucetiusのように制がん剤(ダウノマイシン)を生産する菌もあります。
このストレプトマイセス属が生産する化合物にRK-682という物質があります。
この物質は、チロシンホスファターゼ阻害剤として知られており、プロテインチロシンフォスファターゼ(PTPase)であるCD45、Vaccinia H1-related Phosphatase(VHR)の脱リン酸化を特異的に阻害し、細胞周期の進行を制御します。
研究グループは、このRK682に、ヒトのニューロンの神経突起を伸ばす作用がある事を今回見出しました。
3. RK682による神経突起伸長誘導のメカニズム
RK682は、p38分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(p38 MAPK)とMPIホスファターゼファミリーに属する脱リン酸化酵素のCDC25B(別名CDC25HU2)の複合体、p38 MAPK/CDC25Bを活性化します。
RK682による刺激は、この複合体をまず活性化し、複合体に、DNA損傷誘発性タンパク質であるGADD45Gを加えた分子で構成されるGADD45G/p38 MAPK/CDC25Bというシグナル経路を活性化する事がわかりました。
GADD45G/p38 MAPK/CDC25Bは、神経突起の骨組みを構成する微小管の重合を促進します。
この促進は、GADD45G/p38 MAPK/CDC25BがCollapsin Response Mediator Protein 2(CRMP2)という酵素を活性化させる事で誘導される事が今回解明されました。
GADD45Gは、ヒトの大脳の進化に重要な役割を果たしている事は以前から知られていました。
しかし、ニューロンでどのような機能を持っているのかははっきりとはわかっておらず、重要な役割を持っている事は確かなんだが、それはいったい何だろう?という状態が長く続いていました。
そして今回、RK682によるp38 MAPK/CDC25Bの刺激、そしてそこからGADD45Gの活性化、GADD45Gが微小管の重合促進、神経突起の伸長、という流れが明らかになり、新しい神経突起伸長誘導経路が解明されました。
4. 移植実験
これまでにこの研究グループは、ヒトiPS細胞由来神経幹細胞 / 神経前駆細胞をガンマセクレターゼ阻害剤であるN-[N-(3,5-Difluorophenacetyl-L-alanyl)]-(S)-phenylglycine t-butyl ester(DAPT)で処理した後に、脊髄損傷部位に移植すると、マウスレベルでは慢性期脊髄損傷が治療可能である事を明らかにしてきました。
ガンマセクレターゼはNotchと呼ばれる膜貫通外の受容体を切断し、その切断された断片が核に移行して機能する作用を誘導します。
このNotchという分子は様々な現象に関与しており、神経細胞においても重要な役割にになっていますが、DAPTはガンマセクレターゼを阻害する事によってNotchの切断よ抑制し、Notchシグナルを遮断する働きがあります。
ヒトiPS細胞由来の神経幹細胞 / 神経前駆細胞を使った治療でも、ガンマセクレターゼ阻害剤による処理は必要であると研究グループは考え、もっと低濃度で阻害作用を示す化合物を探索し、神経幹細胞 / 神経前駆細胞に対する阻害剤の影響、つまり副作用を最小限にとどめようと試みました。
その結果、ガンマセクレターゼ阻害作用を持つ化合物の中で、Compound 34という化合物が、DAPTの10分の1の量で同等の効果を示す事がわかりました。
つまり、化合物の副作用を最小限にしながら、移植前の処理ができるメドが立ったわけです。
研究グループは、これらの発見を慢性期脊髄損傷に対するヒトiPS 細胞由来神経幹細胞/前
駆細胞の移植治療に応用できる形での特許出願も行いました。
この研究は、ヒトiPS細胞由来神経幹細胞 / 神経前駆細胞の移植前処理を、より臨床応用に近づけたという事と共に、大脳の進化に重要なGADD45Gのニューロンにおける役割を明確にした、という大きな意義を持つ研究です。
5. トランスレーショナル・リサーチ
この研究は、トランスレーショナル・リサーチ、つまり橋渡し研究の典型例です。
トランスレーショナル・リサーチとは、基礎研究を行うチームで、基礎研究の蓄積によって見出した新しい医療のシーズを、実際の医療現場で使えるように、医療技術化、医薬品化することを目的とした研究を指します。
その性質上、基礎研究から臨床応用研究まで広い分野をカバーするのがトランスレーショナル・リサーチの特徴です。
基礎研究から実用化までは、非常に長い道のりがあります。
試験を行うための倫理、安全面に配慮した手続き、そして試験とその結果の評価という膨大な量の業務をこなさなくてはなりません。
具体的には、基礎技術・基盤技術の育成、物性・製剤化を通じた品質評価、実験室における非臨床効果の試験による、薬理、薬物動態、安全性の確認。
そして法規を遵守し、信頼性を高めた状態での医師主導治験を含む臨床試験が最後に待っています。
トランスレーショナル・リサーチには大きく分けて2つのタイプの研究体制があり、1つは多くの研究機関が共同で押し進める形式、昨今では京都大学iPS細胞研究所のグループが採用している手法、そして今回のように1つの研究グループが、長年にわたって蓄積してきた研究知見を臨床応用するまでに成長させるという形式です。
それぞれに長所、短所があるために、どちらがよいと言う事はできません。
状況に応じてどちらかの体制を採用するかを判断し、研究を進めるわけですが、当然1つの研究グループが押し進めながら、途中で必要なノウハウを持つ研究機関と共同体制を組んで研究を発展させるという例も多数見られます。
神経幹細胞 / 神経前駆細胞の研究は多くの研究チームが進めているため、今回の研究グループの発見によって、大きく医療が進歩するための共同研究チームが立ち上がる可能性も十分あります。