1. マウスで人工臓器の構築に成功
我々のもつ臓器の機能を一部、または全部を、一時的または半永久的に(個体の寿命内で)代行するための人工装置が人工臓器とされています。
ただし、この範疇には、入れ歯、メガネなどは含まれず、一般的には人工心臓、人工肝臓、人工腎臓などの体内に存在する臓器を機能を代行する装置です。
手術の際に一時的に使う人工心肺、人工透析に使う装置も腎臓の機能の一部を代行しているため、人工臓器に分類されます。
しかしこれらは、移植などで体内に埋め込むわけにはいきません。
人工的な臓器は、移植治療、再生医療などにおいて期待されているものであり、様々な研究が進められています。
しかし、体内の臓器を模倣する人工臓器を作り上げることは簡単ではありません。
人工臓器を作製するために期待されているものが多能性幹細胞(iPS細胞)です。
iPS細胞を分化させ、胎児の時に臓器が作製されていくステップを人工的に再現し、人工臓器まで発生させることが作製の目標です。
これまで、臓器の一部を再現する細胞集団の作製に成功した例はありますが、その臓器の機能全てを再現することはなかなかできていませんでした。
今回、九州大学大学院医学研究科ヒトゲノム幹細胞医学分野の林克彦教授、吉野剛史助教と、理化学研究所生命医科学研究センターの鈴木貴紘上級研究員の研究グループは、マウスから作製したiPS細胞を使って卵巣組織を構築し、その人工卵巣から機能的な卵子を作製することに成功しました。
林克彦教授らのグループは、以前マウスの卵子のかたちを作る遺伝子グループを同定しています。
この遺伝子グループをiPS細胞に組み入れると、卵子様細胞に分化させることができ、卵子様細胞の大量生産が可能です。
卵子の細胞質は個体の発生能力をコントロールを行うことができるという特殊な性質があります。
卵子様細胞の細胞質はこのような性質から、不妊治療やクローン動物の作製に用いられており、この大量生産によってこの分野の医療は大きな進歩を遂げました。
さらに、マウスのiPS細胞を使って生殖細胞のもとになる始原生殖細胞に分化する事にも成功しています。
しかし、これらのステップには、胎仔卵巣の体細胞を必要とするため、ヒトに応用するためには高いハードルがありました。
この研究では、卵子の産生のために動物由来の体細胞が不要となり、様々な問題を回避できる画期的な方法として注目されています。
2. 人工卵巣の研究内容
林教授らのグループは、これまでにマウスの多能性幹細胞を生殖細胞の元である始原生殖様細胞(PGCLCs:Primordial Germ Cell-like Cells)に分化させることに成功しています。
しかし、始原生殖様細胞を卵子まで発生させるためには、発生の過程にある卵巣(胎児の体内で発生している途中の卵巣)の体細胞を必要としていました。
もしこれをヒトでやるとすれば、この発生途中の卵巣の体細胞を手に入れなければなりませんが、それは母体内の胎児を犠牲にすることを意味します。
そのため、倫理的に大きな問題があり、この問題を解決することが喫緊の課題とされていました。
今回の研究では、卵胞を構成する全ての細胞種が含まれるFetal Ovarian Somatic Cell-Like Cells(FOLSCs)という細胞群を、マウスのES細胞から分化誘導させることに成功しました。
マウスのiPS細胞から分化した始原生殖様細胞をFOLSCsで作られた環境の下に置く、つまり、始原生殖様細胞をFOLSCsで包むと、始原生殖様細胞は卵子にまで発生しました。
しかも、この発生過程が生体内の卵子発生と非常によく似ており、受精が可能、さらに胎児、出生を経て育った個体自身は繁殖可能な個体にまで成長することができました。
つまり、iPS細胞、ES細胞を使って機能的な卵巣組織を構築し、卵子を形成させることが可能になったのです。
その際に体細胞を採取してくる必要がないため、幹細胞の供給先、例えば幹細胞ストックしている企業、幹細胞バンクなどから供給されれば人工的に卵子を作成することが可能であり、倫理的な問題を回避することが可能となります。
この研究成果によって、ヒトの不妊治療などの医療面だけではなく、絶滅危惧種である動物種を使ってこの研究の流れで卵子の構築を行えば、種の保全も可能となります。
さらに倫理的な問題が排除されたことによって、卵子の研究に研究サンプルを大量に供給することが可能となり、不妊治療だけでなく、遺伝子疾患の原因究明にも大きな貢献をすることが考えられます。
3. 研究の詳細な内容
これまで述べてきたように、卵子は卵巣内の「卵胞」と呼ばれる細胞群の中で成熟します。
研究グループは、ES細胞、iPS細胞を使って卵子のもとになる始原生殖細胞と、卵巣組織になる細胞を分化誘導して構築しました。
この理論は、始原生殖細胞への分化誘導が成功すれば、精子の作製も近い将来には可能になることが予想されます。
始原生殖細胞と、卵巣組織になる細胞を混ぜて培養すると、卵子のもとになる細胞を包んだ卵胞できます。
その後、5週間ほどで卵子ができ、この卵子は受精を経て受精卵となることができます。
この受精卵をマウスの子宮に移植すると、マウスが誕生しますが、現時点では常にマウスが誕生するわけではなく、割合として成功率は約5 %となっています。
4. 今後の課題
臨床応用に向けての研究面での課題は、受精卵を移植した場合に胎児が正常発生をし、出産する確率を上げる必要性です。
このために、成功率上昇と効率化を目指した分化誘導の方法の開発が必要です。
そして別の課題も存在します。
それは、現在の日本では、国の指針によってヒトのiPS細胞などの幹細胞から作製した精子、卵子を使って受精させる研究は認められていません。
生命倫理学が専門の北海道大学、石井哲也教授は、「マウスのES細胞から卵巣組織や卵子ができたなら、人のiPS細胞でできるのも時間の問題だ。この技術を人でどこまで使ってよいのか、科学と倫理の両面で早急な議論が必要だ。」と述べています。
この記事で紹介した、九州大学と理研の研究チームによる研究成果は、生殖医療の分野においては大きな一歩であり、この分野での医療技術の進歩を待ち望んでいる人は多いと予想されます。
しかし、見方を変えると、人工的に生命を生み出すことが可能になる技術のため、悪用される事を考えると危険な技術とも言えます。
こういった技術の悪用を防ぐためには、国による研究の指針の厳格化が必要ですが、あまりに厳しすぎると研究の進歩に対して大きな障害となります。
医療への応用と研究の進歩を優先させると、指針をすり抜けて技術を悪用するケースが増える可能性がありますし、あまりに倫理的な面で厳しくすると研究実施に伴う手続きが煩雑化し、研究者の負担が増大してしまします。
幹細胞の供給先が、企業、幹細胞バンクなど整備されつつあり、研究費さえ整えば、この研究の技術を応用して人工的な生命体を生み出すことが理論的には可能です。
それらが悪用化されることを防ぐために、国、さらに研究期間内でも厳しい倫理規定を設定していますが、今後はこれらの研究の裾野が広がることが予想されるので、様々なケースを考えた基準化が必要になります。
とはいえ、不妊治療、先天的な遺伝子疾患などのこの分野では解明しなければならない問題が山積しており、この研究成果はそれらの課題解決に向けて大きな一歩です。
さらに、九州大学のこのグループからは何人もの研究者が輩出されており、他の研究機関で生殖医療の研究を続けています。
このことによって、この分野の研究の拡がりが期待でき、多様性のある研究機関が共同でプロジェクトを遂行し、研究成果のサイクルが早まると期待されています。