新型コロナ、iPS細胞由来の肺組織に感染・増殖

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モデル生物の代替となるiPS細胞

医学の発展において、実験動物が果たした役割は非常に大きく、日本国内の研究機関、大学では毎年、実験動物の慰霊祭が行われています。

こうした実験動物をモデル生物と呼ぶことがあります。

モデル生物の定義は、「普遍的な生命現象の研究に用いられる生物」とされており、飼育・繁殖がしやすいこと、世代交代が早いことが条件とされてきました。

 

最近では分子生物学の進歩から、遺伝子情報の解明がされているかどうかもモデル生物として使われるための重要な条件になっています。

研究、実験の種類によって適したモデル生物を選ぶことも重要であり、適した動物を選ばないと研究そのものが成り立たなくなることもあります。

 

有名な話として、人工的ながんを作る研究があります。

20世紀初頭、各国の研究者は人工的にがんを生成させようとしていましたがうまくいっていませんでした。

コールタールを扱う労働者の手、顔などにがんを生じることが多いという臨床学的な事実に基づいて、研究者達はラットにコールタールを塗りつけて人工的にがんを生じさせようとしていました。

しかし小さな腫瘍的なできものは作ることができましたが、悪性化している悪性腫瘍は作ることができませんでした。

 

日本の山極勝三郎博士は、多くの研究者がラットで失敗していることから、実験動物にウサギを選びました。

このウサギでコールタールによる人工がん誘導に成功し、世界初の人工的にがんを生み出した研究者、として認知されるに至りました。

後の研究で、ラットでは同様の方法ではがん発生率が極めて低いことがわかっていますが、当時は実験動物の選択にそれほど気を使う研究者は少なかったのです。

ちなみにこの研究業績はノーベル賞クラスのもので、山極勝三郎博士はノーベル賞候補に4回ノミネートされています。

 

現在使われているモデル生物で多細胞生物を挙げると、線虫、ショウジョウバエ、ゼブラフィッシュ、アフリカツメガエル、哺乳類では、マウス、ラット、アカゲザルになります。

しかし、動物愛護の観点などから、哺乳類のモデル生物を使う際はかなりの厳しい制約に縛られることになり、倫理的な問題、研究効率の問題から代替となる実験方法が模索されてきました。

iPS細胞への大きな期待

さらに、モデル生物は人間ではないため、モデル生物から得られた結果が必ずしも人間に適用できるとは限りません。

実際に、薬物代謝の分野では、マウスとヒトで異なる結果になることがしばしば見られています。

かといって、ヒトを安全性が保証されていない試験に参加させるわけにはいきません。

 

iPS細胞が発表された時、再生医療に期待する人達が多かったのですが、研究者の中には「iPS細胞でヒトの組織、器官を作って研究すれば倫理的な問題をクリアできる」と期待する人達がいました。

iPS細胞からヒトの臓器を分化誘導する研究は、再生医療における移植に使う臓器の作成と同時に、ヒトの研究に使える実験材料の作成でもあったわけです。

 

そして最近になって、「SARS-CoV-2 infection of human-induced pluripotent stem cells-derived lung lineage cells evokes inflammatory and chemosensory responses by targeting mitochondrial pathways.」というタイトルの論文が発表されました。

 

これは、iPS細胞から分化誘導して作成した肺組織に、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が感染し、細胞内で増殖することが確認された、という論文です。

詳細を見てみましょう。

インド南部の経済都市から生み出された研究

発表したのは、インド南部のベンガルールという都市にあるEyestem Research社を中心とする研究チームです。

ベンガルールは経済都市であり、インド経済の中心です。

北インドの経済は巨大財閥が中心となっていますが、南インドのベンガルールは巨大な財閥が経済を動かすのではなく、軍需産業を中心とする重工業企業が多数集結し、航空宇宙産業、情報産業が経済を支えています。

 

さらに、ベンガルールにはレベルの高い高等教育機関が集中しており、ベンガルールの大学を卒業後、アメリカのシリコンバレーなどで経験を積んでインドに帰って来るというケースが多数見られます。

そのため、ベンガルールはインドのシリコンバレーと呼ばれていますが、生命科学、医学の研究でもインド国内では突出しています。

 

インドには約250のバイオテクノロジー企業がありますが、そのうち約100の企業がベンガルールに本社を置いています。

Biocon社は、世界で20位以内に入る企業で、ベンガルールだけでなくインドのバイオ産業をリードしています。

 

さらに、世界でも有数のインド理科大学院、インド10大医科大学であるセント・ジョン医科大学、バンガロール医科大学があり、医療系ではバンガロール薬科大学もベンガルールに所在しています。

これらの高等教育機関からの人材供給もあり、最近ではインド南部、ベンガルールからの論文発表数が伸びています。

新型コロナウイルスが感染、増殖可能な人工肺

こういった恵まれた環境にあるEye Research社は、The University of Trans-Disciplinary Health Sciences and Technology(TDU)、Translational Health Science and Technology Institute(THSTI)と共に研究チームを作り、この研究に着手しました。

 

これまで、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を治療するための抗ウイルス剤は開発されていません。

ワクチンは予防のための手段で、新型コロナウイルス感染症にかかってしまった患者に投与しても、多少の改善は見られるかも知れませんが決定的に効果を示すというわけではありません。

 

この開発を進めるためには、ヒトの細胞による検証モデルが必要です。

マウス、ラットなどを使うこともできますが、新型コロナウイルス感染症のように一刻も早く開発する必要がある場合は、実験室で行えるヒト細胞モデルがないと、なかなか開発期間の短縮ができません。

 

そこで研究チームは、iPS細胞を培養・分化誘導して肺組織を作成しました。

肺はいくつもの細胞、組織が複雑に絡み合った臓器で、肺組織をiPS細胞で作るとしても簡単なことではありません。

 

空気の通り道である気管支、この気管支も終末細気管支、呼吸細気管支と何種類もあります。

その中に、クララ細胞、I型肺胞上皮細胞、II型肺胞上皮細胞、そして杯細胞、線毛細胞など多種類の細胞が存在します。

 

肺胞内には呼吸上皮細胞、ガス交換のための毛細血管を形成する細胞があり、弾性繊維を構築する細胞群も存在します。

 

これらの細胞、組織をまとめたものが肺ですが、現在の技術では敗訴のものをiPS細胞から構築することはできません。

そのため研究グループは、肺の各部分を作成して、その部分に新型コロナウイルスを感染させるという地道な実験を行っています。

 

感染させたとしても、実際のヒトの肺に感染するケースと同じメカニズムで新型コロナウイルスが感染しなければ検証モデルとして不完全です。

研究グループは、部分ごとにiPS細胞を分化誘導して構築した肺組織に、自然感染と同じスパイクタンパク質を使った感染を試み、感染を成功させました。

 

感染したウイルスは、このスパイクタンパク質に特異的な抗体で検出することが可能で、モデルとして有用である事が証明されました。

また、感染させた細胞を解析したところ、ウイルスが細胞に侵入して増殖するのを助ける宿主受容体タンパク質の発現が上昇していることが明らかとなりました。

その延長で分子マーカーの特定を行った結果、ミトコンドリアの損傷が新型コロナウイルス感染症の重症化に関係していることが明らかになりました。

 

研究チームが作り出したこの検証モデルは、この論文を参考としてアメリカ、ヨーロッパ、日本などでさらに発展させたモデルになることが予想されます。

新型コロナウイルス感染症との戦いは、数年で決着がつくものでなく、今後しばらくは続くと考えられますが、そのためのツールはこの検証モデルのように段階的に開発されつつあります。

 

 

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