幹細胞研究に新しい遺伝子解析技術
ヒトiPS細胞、また哺乳類細胞へヒトやマウスの人工染色体を導入する研究はすでに行われていますが、その導入効率が問題となっています。
導入効率とは、「人工的に作られた塩基配列がどのくらい細胞内に入るか?」ということです。
RNA干渉、細胞の形質転換では人工的な核酸(塩基配列で構成されている人工核酸)を細胞内に入れるのですが、例えば細胞の培養液に100個加えたとしても、必ずしも100個入るとは限りません。
実験条件によっては、導入効率が1 %、つまり100個のうち1個しか細胞内に入らないということもあります。
鳥取大学の香月康宏教授、東京薬科大学の宇野愛海助教らの研究グループは、ヒト/マウス人工染色体を保有する CHO 細胞をタキソールとリバーシンという2種類の化合物を混合して用いることにより、導入効率を飛躍的に上昇させることに成功しました。
この研究成果は、アメリカ遺伝子細胞治療学会の機関誌である、「Molecular Therapy-Nucleic Acids」に「Co-treatment of CHO cells with Taxol and reversine improves micronucleation and microcell-mediated chromosome transfer efficiency(和訳:タキソールとリバーシン併用処理によるCHO細胞における微小核形成誘導効率及び、微小核細胞融合法を用いた染色体導入効率の改善)」というタイトルで発表されました。
この研究は幹細胞研究を大きく発展させるものとして期待されており、戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)の研究領域「ゲノムスケールのDNA雪渓・合成による細胞制御技術の創出」(研究総括:塩見春彦慶應義塾大学医学部教授)のプロジェクト内研究課題「ヒト/マウス人工染色体を用いたゲノムライティングと応用」で、研究代表者:香月 康宏(鳥取大学 医学部 生命科学科/染色体工学研究センター 教授)として大規模な研究資金を投入されて行われました。
また、それと並行して国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)再生医療実現拠点ネットワークプログラム「次世代型ヒト人工染色体ベクターによる CAR 交換型高機能再生T 細胞治療の開発拠点」、革新的先端研究開発支援事業「免疫系ヒト化動物を活用した抗感染症ヒト抗体創生基盤の確立」、および生命科学・創薬研究支援基盤事業「染色体工学技術を用いたヒト化モデル動 物・細胞による創薬支援」などの支援を受けて行われました。
この研究規模を見ると、かなり期待された研究であることがわかります。
研究の理解に必要な基礎知識
この研究で得られた新技術は最新のものであるため、理解するためにはいくつかの用語を理解する必要があります。
微小核細胞融合法
英語での正式名称は、Microcell-microcell mediated chromosome transferで、日本ではMMCT法とも呼ばれる実験技術です。
細胞内には、染色の不分離によって生じた「微小核」というものが存在します。
細胞の中から細胞膜に包まれた微小核(微小核細胞)を取り出します。
取り出した微小核は別の細胞と融合させ、新しい細胞を作製しますが、この研究ではヒト、またはマウスの人工染色体を持っているCHO細胞(Chinese hamster ovary、チャイニーズハムスター卵巣上皮由来細胞)の微小核を使っています。
CHO細胞は、コルセミド添加の培養液で長期間培養しても細胞死を生じにくく、微小核形成を誘導できる哺乳類の細胞株です。
微小核細胞融合法には広く使われている細胞です。
ヒト/マウス人工染色体(Human/mouse artificial chromosome)
通常の細胞にあるヒト、マウスの染色体から、ヒト21番染色体、マウス10番染色体などから、染色体を維持するために必要な部分以外の遺伝子領域を削除し、外来遺伝子を導入するための塩基配列を組み込んだ染色体です。
通常の染色体より小さいため、改変ミニ染色体とも呼ばれます。
微小管重合阻害剤
細胞分裂の際に機能する微小管を構成するチューブリンの重合を阻害し、微小管によって構成される紡錘糸の伸長を阻害する薬剤です。
この薬剤によって細胞分裂が完了しないことを利用して、抗がん剤にも用いられる薬剤ですが、この研究では紡錘糸が染色体に正常に結合しないことによって、染色体分配に人工的に異常を誘導できます。
一方で、微小管“脱”重合阻害剤というものもあり、これはチューブリンの“脱”重合反応を阻害し、結果として重合阻害剤と同じく染色体分配の異常を誘導します。
研究の詳細
この研究のポイントを挙げます。
- まず、微小核細胞融合法では、遺伝子情報(塩基配列)を細胞に導入する際の導入効率が問題でした。
- そこで研究グループは、従来の微小管重合阻害剤であるコルセミドではなく、微小管脱重合阻害剤のタキソールと、紡錘体チェックポイント阻害剤のリバーシンを使った技術を開発し、今までの方法と比べて5倍から20倍近くの染色体導入効率を実現しました。
- この施術によって、遺伝子改変を伴うモデル動物の作製効率が上昇します。
- また、再生医療分野では、遺伝子・細胞医薬品といった幹細胞関連の開発が大幅に加速すると考えられます。
微小核細胞融合法は、染色体を供与する細胞への微小管重合阻害剤処理を行い、微小核形成を誘導させます。
その後、遠心分離によって微小核細胞を単離し、染色体を受け取る細胞と融合して完了します。
研究グループは、微小核形成の誘導効率が染色多導入効率に関係しているのではないかと仮説を立て、微小核形成方法の改良を行いました。
従来使われていた微小管重合阻害剤であるコルセミドではなく、微小管脱重合阻害剤のタキソールと、紡錘体チェックポイント阻害剤のリバーシンを使って微小核細胞融合法の染色体導入効率の改善を試みました。
微小管脱重合阻害剤のタキソールと、紡錘体チェックポイント阻害剤のリバーシンを使った理由は、研究に入る予備実験において有効な結果を出したことからで、実際に本研究で同様の有効な結果を得ることができ、微小管脱重合阻害剤のタキソールと、紡錘体チェックポイント阻害剤のリバーシンの併用が有効であることが証明されました。
微小核細胞融合法は、正常細胞などを使うと微小核形成誘導時に細胞死を誘導してしまうことが多く、技術自体に汎用性がありませんでした。
しかし、本研究成果を活用すれば、従来は微小核形成誘導が困難であった細胞を染色体供与細胞として使える可能性があります。
さらに染色体導入が容易になったことから、染色体が原因の疾患研究が大きく進歩することが期待されます。
例えば、21番染色体断片を導入したダウン症候群モデル細胞、またモデル動物の作製、デュシェンヌ型筋ジストロフィー由来多能性幹細胞(患者由来の細胞を使ったiPS細胞)に正常な遺伝子を導入し、ヒト人工染色体を導入することによって正常な染色体をもつ細胞を細胞治療に使うなどが考えられます。
今後の研究展開と臨床応用
現在この技術は、実験室レベルの操作に使うことができる技術であり、臨床で使うためにはいくつかのハードルをクリアしなければなりません。
この技術そのものの安全性も当然ですが、何よりも再生医療に使われる細胞がこの技術によって作製されたとして、移植後も安全に人体内で機能するかどうかというハードルが重要です。
本研究では、ヒトと同様にマウスでも使うことができる技術を開発しました。
まずはマウスを使った細胞作製実験、移植実験を行って安全性の確認がされていくと予想されます。
20世紀後半から21世紀初めですと、こういった技術が実際に臨床で使われるためには、10年以上の期間が必要でした。
しかし最近は、基礎研究で使われた技術、開発された技術が臨床で使われるまでに必要とされる期間がどんどん短くなってきています。
これは、法律の整備が技術の進歩に合わせて行われてきていることと、様々な分野の技術が横断的に使われるようになったためです。
こういった技術が発表される学会では、医学系だけでなく生命科学系、薬学系、農学系、工学系の研究者が参加するという多様性を持った状態になっています。
研究資金の投入レベルを考えると、国としてもこの技術に大きな期待を寄せていることがわかります。
我々が思っているよりも早く、この技術を使った医療が実現するのではないでしょうか。