iPS細胞に生物時計の組み込みに成功
熊本大学大学院生命科学研究部分子生理学講座の金子瞳研究員、富澤一仁教授と、国際医療福祉大学福岡薬学部の貝塚拓講師の研究グループは、人工多能性幹細胞であるiPS細胞に生物時計を組み込むことに成功しました。
生物時計の組み込みは、時計遺伝子の発現によって細胞に概日リズムを持たせることで行われています。
この研究成果は、Artificial induction of circadian rhythm by combining exogenous BMAL1 expression and polycomb repressive complex 2 inhibition in human induced pluripotent stem cells(ヒトiPS細胞における外因性BMAL1の発現とポリコーム抑制複合体2の阻害による概日リズムの人工的誘導)というタイトルの論文で発表されています。
iPS細胞は概日時計機構を有さないことで知られています。
本研究では、ある低分子化合物の処理と時計遺伝子の導入により人工的に概日リズムを誘導することに成功しました。
研究グループは時計機構が作動したiPS細胞を‘ticking’iPS細胞と名付けました。
‘ticking’iPS細胞はあらゆる体細胞になれる能力(多能性)は保持しているが、無限に分裂する能力(増殖能)が顕著に抑制されていました。
つまり、生物時計をもつiPS細胞は幹細胞に重要な増殖能力を失っていることになります。
本研究の成果は、多能性幹細胞が時計機構を有さないメカニズムとその必要性を説明するものであり、ヒト発生初期の時計出現機構を解明する上で重要な知見であると考えられています。
生物時計とは?
生物時計とは、体内時計、生理時計とも呼ばれ、生物の睡眠や行動の周期に影響を与えます。
動物、植物、菌類、藻類などのほとんどの生物に存在しており、約25時間周期で変動しているとされています。
我々人間はこの生物時計の存在を認識することはありませんが、睡眠の周期、行動の周期に大きな影響を与えています。
動物全体で見ると、夜行性の動物、昼行性の動物の行動を制御しているのはこの生物時計です。
昆虫では、この生物時計を利用して限られた空間を利用しています。
種類によって活動時間をずらせば、空間内で競合が起きることが少なくなり、同種の異性との出会いの機会を増やすことができます。
これは「時間的住み分け」、「行動の時間配分」と呼ばれる現象で、生物学的多様性の維持にも大きな影響を与えています。
渡り鳥が太陽の位置から方角を決定することができることにも生物時計が関与していることが知られており、様々な動物の意外な行動に関係しています。
ミツバチはエサのある場所を仲間にダンスで教えますが、このダンスは日光が入らない巣の中で行われます。
ミツバチは体内時計で時刻を認識し、太陽の方角を日光を確認しなくても特定できるために正確なダンスでエサの方角を示すことができると考えられています。
また、植物においては、花・芽の生長が日の長さに支配される現象も生物時計機構と密接に関係があります。
生物時計の多様性
生物時計のパターンは、概日リズム(サーカディアンリズム)、光周期性など様々なパターンがあります。
周期も長いものから短いものまで多種多様で、短い周期の代表例では、酸化還元補酵素の還元度合いの周期変化のような秒、分単位のもの、心臓の拍動、脳波が挙げられます。
周期の長いものでは、鳥の渡り、魚の回遊、植物の開花などに見られる季節単位、年単位のものがあります。
ここまで挙げた例は、太陽の動き、季節などにおける生物時計ですが、ストップウォッチのように一定時間の経過だけを示す生物時計(タイマー型生物時計)も存在しています。
このタイマー型生物時計は、「砂時計型生物時計」と呼ばれることもあり、砂が落ちきるとスイッチが入る、スイッチが切れるというものも存在します。
生物時計の場所と仕組み
生物時計に必要な機能は、それぞれの細胞が持っています。
しかし、細胞個々ではその機能を発揮して個体の行動を制御することは難しく、生物時計として機能するためには生物時計として機能するための細胞群、つまり組織・器官が必要です。
生物時計として機能する細胞群の存在場所は動物によって異なります。
哺乳類では左右の視神経が交叉する部位のやや上、視交叉上核に存在します。
視交叉上核を破壊したラットでは、24時間の昼夜のリズムがなくなりますが、それ以外の目立った障害は見られませんでした。
このことから視交叉上核が生物時計に特化した機能である器官であると考えられます。
生物時計の機能は、細胞内で生成されるタンパク質がリズムをコントロールする振り子の役割を果たしているが、細胞内化学反応は数分程度で終了します。
この振り子のタンパク質をコードする遺伝子が時計遺伝子と呼ばれる遺伝子で、同じタンパク質が増えすぎないようにいくつかの遺伝子で制御し合っています。
この制御システムは負のフィードバック機構と呼ばれており、タンパク質が増えすぎると減少する方向へ、タンパク質が少なすぎると増加する方向へと制御を行っています。
この基本メカニズムは、カビからヒトまで真核生物に共通したシステムです。
研究の詳細
この研究を理解する上で必要な知識は、「ポリコーム複製複合体」がどんなものであるかという理解です。
ポリコーム抑制複合体は、DNAの高次構造を形成するヒストンタンパク質を修飾するためのタンパク質複合体です。
タンパク質複合体とは、何種類かのタンパク質によって形成されている大きな分子量を持つ複合体です。
このポリコーム抑制複合体がヒストンH3の27番目のリシンをメチル化することでDNAの高次構造を変化させて遺伝子転写を抑制します。
このシステムはiPS細胞で活性が高く、文化に係わる遺伝子発現を抑制することで多能性を保持する役割を持っています。
つまりポリコーム抑制複合体はiPS細胞の多能性、全能性を維持するために重要なシステムです。
この研究グループによって、ヒトiPS細胞ではPRC2(polycomb repressive complex 2)による時計遺伝子のエピジェネティックス制御が生物時計機能を抑制することが明らかになりました。
PRC2はポリコーム群タンパク質(PcG)の2つのクラスのうち1つです。
この複合体は、ヒストンメチルトランスフェラーゼ活性を持ち、主にヒストンH3のリシン27蕃山期をメチル化します。
この修飾は、遺伝子転写が抑制(サイレンシング)されたクロマチンの標識となります。
PRC2は抑制されるゲノム領域への最初の標的化に必要であり、もう一つのPcGのグループであるPRC1はこの抑制の安定化に必要で、細胞分化後の抑制された領域に作用しています。
PRC2の機能によって生物時計の機能が抑制されますが、これはiPS細胞に必要な抑制です。
この研究では、生物時計が機能しているiPS細胞では増殖能が低下することから、その発生を抑えることが無限増殖能の獲得に重要である可能性が示されています。
ヒト発生においても受精卵の急速な分割を可能とするために、敢えて生物時計の機能を抑制したまま増殖性の獲得に集中する必要があったと推測できます。
そしてこの研究の成果はiPS細胞への応用だけでなく、他の細胞に活用することも可能です。
iPS細胞と同様の無限増殖という性質を持っている細胞としてはがん細胞がありますが、一部のがん細胞では生物時計の機能破綻が生じており、本研究を応用した戦略でそれらのがん細胞の増殖を抑制する薬剤の開発に繋がる可能性があります。