ヒトiPS細胞由来ミクログリアの非侵襲的な脳移植法でヒト化マウスを作製

目次

1. 侵襲性と非侵襲性

「侵襲」とは、生体を傷つけること全てを指す言葉です。

病気や、ケガで生体が傷つけられることは「侵襲された」ということになりますが、医学分野ではその他にも医療処置における手術などの「侵襲」が存在します。

手術、治療のための切開は侵襲性を伴う医療行為の代表ですし、注射、点滴など、身体に針を刺す医療行為も侵襲性のある医療行為とされます。

こういった、「医療現場で使われる、人を侵襲する目的で作られた機器」は、医療機器として扱われ、厳しい審査、管理が求められます。

侵襲性がある治療の場合、どうしても患者の身体に負担をかけてしまうため、それを軽減、または避けることのできる、低侵襲性、または非侵襲性の治療方法が研究されています。

手術で、メスを使って切開することは侵襲性のある治療の代表例ですが、内視鏡を使った手術方法が開発されることによって、低侵襲、または非侵襲性となるために患者の負担を減らすことができます。

再生医療においても、低侵襲性、非侵襲性の治療方法は重要視され、研究が進んでいます。

iPS細胞などから作製した臓器、または前駆的な組織を手術によって切開して移植する方法は当然侵襲性を伴うものですし、点滴による細胞投与も、針を刺すために侵襲性を持つ治療方法になります。

2021年8月、山梨大学医学部の小泉修一教授とパラジュリ・ビージェイ特任助教、九州大学大学院医学研究院の中島欽一教授、そして塩野義製薬株式会社で構成する研究グループは、iPS細胞から分化誘導した脳細胞を、完全な非侵襲の方法で脳に移植することに成功したと発表しました。

この方法は、経鼻移植法という方法です。

研究グループは、実験動物としてマウスを使い、マウスの鼻腔内に細胞を静置するだけで、その細胞は脳内に侵入し、移植が完了するという画期的な方法です。
頭部を切開しての移植手術と比べると、患者への負担は比べものにならないくらいに軽くなります。

2. ミクログリアの移植

研究グループが目指したのは、ミクログリアと呼ばれる脳細胞を、脳に非侵襲性な方法で移植し、新しいミクログリアと入れかえる方法の開発です。

ミクログリアは、小膠細胞とも呼ばれ、脳脊髄中に存在するグリア細胞の一種です。

グリア細胞は、神経膠細胞という名前で呼ばれる神経系を構成する細胞の一種です。

神経系を構築する細胞のうち、神経細胞以外の細胞は全てグリア細胞と呼ばれており、その中でも脳、脊髄中に存在するものをミクログリアと呼んでいます。

グリア細胞は神経細胞と比べると非常に数が多く、神経細胞の50倍ほどの細胞数が体内にあると考えられています。

ミクログリアは、中枢神経系を構成する細胞の最大20%を占めています。

グリア細胞の一種ではありますが、他のグリア細胞が外胚葉由来であるのに対し、ミクログリアは中胚葉由来で、造血幹細胞から分化します。

食細胞として知られるマクロファージに似た機能を持ち、神経組織が何らかの原因によって傷害を受けると、ミクログリアは活性化して病変部位の修復を行います。

最新の研究では、ミクログリアは中枢神経系内の免疫担当細胞なのではないかと考えられています。

特に注目されている理由として、ミクログリアは、統合失調症、不安障害、ストレス障害などを含む、精神障害に影響しているという研究結果が示されていることがあります。

うつ病とミクログリアの関連は分子生物学的に研究され、うつ病治療のターゲットとして、ミクログリアに発現しているCB2Rが挙げられています。

ミクログリアが異常な状況で活性化してしまうために、海馬の神経新生を阻止しているという報告があり、ミクログリアの不活性化はうつ病の改善に効果があると現在では考えられています。

また、異常なミクログリアが多数出現した場合、その原因が遺伝子レベルのものであり、薬剤などによる治療が不可能になれば、脳内のミクログリアを正常なものと入れかえる必要が出てくることが考えられます。

今回報告された研究は、そういった治療も視野に入れた研究から生まれた知見です。

さらに、これまでのミクログリアの研究は、マウスなどの齧歯類の細胞を用いたものでした。

さらに、ミクログリアは環境に敏感な細胞であるため、試験管レベルの研究、つまり生体内ではなく、研究のために実験室レベルで細胞を培養して使おうとすると、本来の性質とは大きく違った性質に変化してしまい、実際のミクログリアの現象を再現できないという問題があります。

そのため、「ヒトのミクログリアをマウスなどに移植して研究する」という方法を効率よくできないかという模索が長年にわたって行われていました。

3. 今回の研究内容

研究グループは、ヒトiPS細胞を分化誘導してミクログリアを作製し、このミクログリアをマウス脳内に移植する、しかも非侵襲的な方法で移植する方法を確立しようとしました。

この方法が確立できれば、マウスの脳内で、ヒトのミクログリアがどんな作用、役割を持つのかを解析できます。

先に述べたように、培養状態でのミクログリアの性質は、生体内のミクログリアと大きくかけ離れているため、医学に応用できる知見にはなりません。

この方法が確立されれば、真のミクログリアの役割・機能が解析できるだけで泣く、疾患時の異常ミクログリア、加齢による老化ミクログリアなどを、正常なミクログリアに入れかえるという細胞治療が開発できる可能性があります。

研究グループは、まずヒトiPS細胞から大量のヒトミクログリアを作成する技術を開発しました。

低侵襲性、非侵襲性の方法は、多くのケースで大量の細胞を必要とするため、予めミクログリアの大量生産系から開発したわけです。

この方法を確立した後に、いよいよマウス脳内への移植方法の開発に着手しますが、手順としては、「マウスが本来持っているマウスミクログリアをマウス脳内から除去する」そして「非侵襲的な方法で、iPS細胞から作成したヒトミクログリアをマウス脳内に移植する」となります。

マウス脳内のマウスミクログリア除去には、CSF1R拮抗薬という薬剤を使います。

この薬剤は、マウスに投与すると、脳内ミクログリアはほぼ消失します。

その後、マウスからこの薬剤を除去すると、ミクログリアは自己再生して再度増殖します。

ヒトミクログリアを移植する時に、このCSF1R拮抗薬がマウス体内に残っていると、移植したヒトミクログリアも除去されてしまいます

そのため、実験の条件検討を行い、CSF1R拮抗薬を体内から除去するステップでヒトミクログリアの移植を行います。

移植は鼻腔内に細胞を置くことで行いますが、鼻は昔から脳に近い場所として知られています。

顔を構成する器官などは、意外なほど脳に近く、機能的にも密接に関連しています。

CSF1R拮抗薬をOFFにするタイミングで、マウスの鼻腔内にヒトミクログリアを置くと、ミクログリアは鼻腔内の構造物を通過し、脳内に入って各部位に移動します。

さらに、移動したミクログリアはマウス脳内で増殖し、脳内に定着することが確認されました。

この研究によって、以下の事が開発され、また可能性として考えられています。

  1. ヒトiPS細胞からヒトミクログリアを大量に作成する方法の開発。
  2. CSF1R拮抗剤を使ってミクログリアを移植するタイミング。
  3. 鼻腔内に静置することによってミクログリアが脳内に移動することの確認。
  4. 脳内に移植したミクログリアが増殖し、定着することの確認。
  5. 本来存在していたミクログリアを除去し、新しいミクログリアを移植する方法の確立。
  6. ミクログリアをヒト由来のものに置き換えることによって、ミクログリアヒト化マウスの作製に成功。

最後の6は非常に重要です。先天的な遺伝子異常によるミクログリアが関与する疾患の場合、患者の細胞からiPS細胞を作製し、疾患原因となるタイプのミクログリアを分化誘導し、マウスに移植することによって、その疾患のモデルマウスがヒトに非常に近い形で作成することが可能となります。

現在、この技術が越えるべきハードルとして、経鼻移植法には大量のミクログリアが必要である事が挙げられます。

今後、この解決に向けて研究が進み、様々な脳疾患の分子メカニズムが明らかになれば、根本的な治療が開発されるのではないかと期待されています。

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