紀伊半島の神経難病である牟婁病(むろ病)
太平洋熊野灘に面する紀伊半島の南岸一帯は、江戸時代までは紀伊国の牟婁(むろ)と呼ばれていました。
この地域の中心部を流れる古座川地域には、「古座の足萎え病」の伝承があります。
「古座の足萎え病」は、歴史的な地方病の一つとして知られています。
これは、日本の和歌山県の古座川流域でかつて多発していた病気で、特に19世紀から20世紀初頭にかけて多く報告されました。
この病気は、足の筋力低下、筋萎縮、歩行困難が特徴で、症状が徐々に悪化して最終的には歩行が困難になります。
この疾患の原因としていくつかの仮説が挙げられました。
まず特定の栄養素の欠乏が関与している可能性、そして地域の環境に由来する特定の毒素(例えば、鉛やカドミウムなどの重金属)に長期間暴露されることが原因と考えられたこともあります。
さらに、日本住血吸虫症のような地域特有の感染症が関与している可能性も考えられました。
明治末にはわが国の神経学の創始者である三浦謹之助によって、紀伊から紀勢にかけての紀伊半島南岸にALSが多発することが指摘されました。
三浦謹之助は特に地方病や感染症の研究で知られています。
古座の足萎え病の調査を積極的に行い、和歌山県古座川流域で多発していた「足萎え病」の原因究明に取り組みました。
彼の調査は、この病気の理解と予防に重要な役割を果たしています。
古座の足萎え病だけでなく、三浦は地方病や感染症の研究に幅広く携わり、特に寄生虫やウイルスに関する研究を行っています。
地方病の研究において、三浦はパイオニア的存在であり、その業績は高く評価されています。
三浦謹之助の研究を足がかりに、また、和歌山県立医科大学精神科の木村潔と八瀬善郎が、牟婁の風土病である「古座の足萎え病」が筋萎縮性側索硬化症であることを明らかにしました。
グアム島や西ニューギニアに筋萎縮性側索硬化症高集積地があることは知られていましたが、紀伊半島南岸にも同様の地域があることを彼らは明らかにしています。
牟婁病のグリア細胞に関わる病態を解明
慶應義塾大学再生医療リサーチセンターの岡野栄之センター長(研究当時は慶應義塾大学医学部生理学教室・教授)、理化学研究所のニコラ・ルヴァントゥ特任助教(研究当時は慶應義塾大学医学部生理学教室・特任助教)、慶應義塾大学殿町先端研究教育連携スクエアの森本悟特任准教授(研究当時は慶應義塾大学医学部生理学教室・専任講師)、三重大学大学院地域イノベーション学研究科の小久保康昌招聘教授らの研究グループは、紀伊半島に多発する筋萎縮性側索硬化症/パーキンソン認知症複合(牟婁病)患者iPS細胞モデルを構築し、牟婁病に重要な役割を果たすと考えられているアストロサイトをその細胞群から作製しました。
このアストロサイトを使って、CHCHD2というミトコンドリア機能に重要な遺伝子およびタンパク質が、牟婁病患者の細胞では低下していることを明らかにしました。
さらに、実際の患者脳脊髄内アストロサイトでもCHCHD2の異常をきたしていることを突き止めました。
この研究は、記録に牟婁病が出現してから300年以上不明であった原因の一端を明らかにしたものです。
患者iPS細胞モデルおよび高純度な細胞分化誘導技術がこの研究を可能とし、iPS細胞創薬に繋がる糸口を見出すことに成功しました。
研究の詳細
研究の詳細を理解するために、まずはこの研究に関わる用語を説明します。
まず、ポイントとなる細胞であるアストロサイトですが、この細胞は脳脊髄内のグリア細胞の一種です。
主に神経系組織の支持と保護に関与しており、神経細胞の間の隙間を埋め、栄養素の供給、代謝廃棄物の除去、そして神経細胞の電気的および化学的環境の調節を行っています。
この研究のカギとなるタンパク質、CHCHD2は、ミトコンドリアの機能に関与するタンパク質であり、酸化的リン酸化と呼ばれるプロセスを仲介します。
アデノシン三リン酸を生成する過程で必要であり、この遺伝子の変異はミトコンドリアの機能に影響を与え、パーキンソン病や筋萎縮性側索硬化症に関連することが知られています。
最近使われるようになったiPS細胞創薬という言葉は、これまでの創薬の多くが動物モデルを用いて行われていたが、患者iPS細胞モデルを用いて、薬や治療法を開発する新しい創薬様式を指します。
筋萎縮性側索硬化症とパーキンソン症状は、今や有名な疾患です。
筋萎縮性側索硬化症:運動神経が選択的に障害され、運動麻痺、嚥下障害、呼吸不全を来して、約2-4年で致死的な経過を辿る神経難病であり、根治療法は未だありません。
パーキンソン症状は、動きが遅くなる・少なくなる、手足が震える、手足の関節が硬くなる、転倒しやすくなる、を4徴とする疾患です。
牟婁病では、大脳や脊髄における様々な種類の神経細胞やグリア細胞に異常をきたすことから、脳脊髄全体に分布するアストロサイトの役割が重要と考えられています。
研究グループは、患者の血液細胞からiPS細胞を樹立し、独自の方法でアストロサイトを高効率に分化誘導することに成功しました。 _
患者のアストロサイトを解析したところ、CHCHD2というミトコンドリア機能に重要な遺伝子およびタンパク質の発現が低下し、ミトコンドリアの減少やミトコンドリアの一部の形態異常も伴い、神経を保護する機能が低下していることを突き止めました。
遺伝子導入によりCHCHD2の発現を回復させると、部分的に患者アストロサイトの機能を改善しました。
また、ミトコンドリア機能を改善し、患者アストロサイトの機能回復を誘導する低分子化合物を見出す事にもこの研究では成功しています。
紀伊半島集積地の筋萎縮性側索硬化症は神経病理学的には中枢神経系にAlzheimer神経原線維変化(NFT)が多発し、他多発地筋萎縮性側索硬化症と同質の疾患と考えられていました。
1980年代にはいったん筋萎縮性側索硬化症の発生が激減したとされていましたが、1990年に三重大学神経内科の初代教授である葛原茂樹が筋萎縮性側索硬化症の多発が持続していること、同じ集落にグアム島の病気であったパーキンソン・認知症複合(PDC)が併せて多発していることを見出しました。
本疾患については、分子的な疾患の原因については今回の研究で原因の一部が明らかになりましたが、なぜこの地域で多発するのかに関しては、環境素因、遺伝素因ともに解明されていません。
慶應義塾大学の岡野らのグループが、原因となる遺伝子や病態背景が確定していない疾患に対する病態解析プラットフォームおよびiPS細胞創薬という新たな創薬様式を確立しました。
環境的素因が不明であっても、疾患の分子メカニズムを明らかにすればその疾患に対する創薬研究を行うことができます。
今回の研究で、研究グループが構築した患者iPS細胞由来アストロサイトは、患者の脳脊髄内で起きている病態を再現できることがわかりました。
このことは、疾患特異的iPS細胞が、遺伝子異常を含む原因が分かっていない疾患の病態を研究する際にも、非常に有効なモデルであることを示しています。
また、iPS細胞由来アストロサイトで効果を認めたミトコンドリアに対する治療手法についても、細胞創薬に繋がる重要な知見であると考えられます。
に対してのアプローチが難しい)。
iPS細胞から標的細胞群を構築することがアストロサイトで成功したということは、アストロサイトのみではなく、運動ニューロンや大脳皮質ニューロンなど、様々な細胞種に関してもiPS細胞からの誘導が可能になるのはそう遠くない未来でしょう。
確立された誘導細胞を用いて病態解析や薬剤アプローチを行えば、困難と言われている 神経系、脳が関係する疾患に効果のある薬、治療方法の開発に道筋がつくものと期待されています。