1. iPS細胞を経由しない新しい分化誘導法
iPS細胞の研究が進み、医学の分野では、患者の細胞を採取し、その細胞からiPS細胞を構築し、再度分化誘導して研究、治療の方針決定に用いる方法が一般化しています。
iPS細胞は、採取してきた細胞に複数種類の遺伝子を導入に、人工的に培養することによって構築されます。患者から採取した細胞は、生殖細胞出ない限りは「体細胞」に分類される細胞で、その細胞をいったん分化前の状態である「幹細胞」に形質を変換し、再度分化誘導をかけることによって、要求される体細胞を作成します。
一方で、iPS細胞など、幹細胞の研究から、体細胞からiPS細胞などの多能性幹細胞を経ずに特異的な分化細胞に直接誘導する技術も発達してきました。
これは「ダイレクトリプログラミング」と呼ばれ、基礎研究、創薬、再生医療において、新しいやり方として研究と開発が行われています。
現時点ですでに、ヒトの細胞の何種類かでダイレクトリプログラミングによる、iPS細胞を介さない分化誘導が成功しており、臨床への応用を視野に入れた研究が進められています。
今回の研究報告は、このダイレクトリプログラミングを、イルカの細胞で成功したというものです。
イルカの体細胞を使い、多能性幹細胞を経ずに、神経細胞にダイレクトリプログラミングに成功し、この技術を環境問題の調査などに応用しようという狙いがあります。
2. 謎が多いカズハゴンドウ
研究を行った愛媛大学沿岸環境科学研究センターは、瀬戸内海に面した愛媛県松山市に設置されています。
愛媛大学の特色として、海洋環境の研究を早くから取り組んでいる事が挙げられます。
化学汚染・沿岸環境の研究拠点として指定されており、環境学、化学だけでなく、分子生物学、生命科学、医学からの知見も積極的に応用して、海洋環境の研究を行っています。
研究を行った落合真理博士は、カリフォルニア大学サンタクルーズ校を卒業後、サンタクルーズ校の海洋科学ジュニアスペシャリストとして研究後、愛媛大学大学院で博士号の学位を取得しました。
つまり、環境学と分子生物学を結びつけて研究を遂行しているカリフォルニア大学のノウハウを持ち込み、この研究成果に至ったと思われます。
研究に用いたイルカは、カズハゴンドウと呼ばれるイルカです。
カズハゴンドウは、温暖な水域に生息しますが、遠洋を好むため、通常接触することが困難です。
そのため、詳しい生態などがよくわかっていません。
今回の研究では、よくわかっていないカズハゴンドウを分子生物学的に解析する、体細胞のダイレクトリプログラミングを行う、そして環境汚染評価のツールを作成するといういくつかの課題を解決できる研究となっています。
2015年、茨城県鉾田市に150頭をこえるカズハゴンドウが打ち上げられました。
これは大きなニュースとなり、地元の人達が打ち上げられたカズハゴンドウを海に戻す映像が何度も流れ、世界各国でも報道されています。
遠洋に生息しているはずのカズハゴンドウが海岸に打ち上げられるということは極めて異例のことであり、大きな話題となりました。
打ち上げられたカズハゴンドウの中には死亡したものも多く、この死亡した個体は、ヒトとの接触がほとんどないカズハゴンドウの研究のために、いくつかの研究機関で保存され、落合博士らはここから細胞を手に入れました。
入手した細胞のうち、繊維芽細胞を低分子化合物数種類の混合液を添加した培養液で培養すると、形態的に神経細胞に似た細胞を得ることができました。
この細胞の遺伝子を解析すると、神経細胞の遺伝子発現パターンと同様のパターンを示し、繊維芽細胞から神経細胞に変換したことが証明されました。
この培養中、幹細胞に形質が転換した徴候はなく、繊維芽細胞から直接神経細胞に転換したことが証明されています。
クジラなどの海棲哺乳類でのダイレクトリプログラミングは世界初の成功例になりますが、奇しくもヒトとほとんど接触がない海棲哺乳類であるカズハゴンドウで成功したということも興味深い点です。
3. カズハゴンドウの細胞を使った環境評価
神経細胞に分化誘導した後、研究グループは化合物の神経毒性の試験にこの細胞が使えるかどうかを研究しています。
環境汚染物質として代表的なポリ塩化ビフェニール(PCBs)は体内に侵入後、代謝されて「代謝物」を産生し、この代謝物が神経毒性を持ちます。
分化誘導した神経細胞にこの代謝物を添加すると、80 %以上の細胞が、アポトーシス(細胞死)をしました。
細胞が死ぬ時には、大きく分けて2つの形態があります。
1つはネクローシスと呼ばれる死に方、もう一つはアポトーシスと呼ばれる死に方です。
ネクローシスは「消極的細胞死」、アポトーシスは「積極的細胞死」と言われることもありますが、ネクローシスの場合は細胞が完全に崩壊するまで、細胞自体は生きようとします。
しかし周囲の環境などがそれを許さないために結果的に細胞には死が訪れます。
酸素不足、エネルギー不足、また浸透圧によるものなど様々な原因で細胞がそれ自身を維持できなくなって崩壊するのがネクローシスです。
一方で、アポトーシスは積極的、つまり細胞自らが死を選ぶに死に方です。
アポトーシスに必要な遺伝子、タンパク質は細胞の中に組み込まれており、スイッチが入るとアポトーシス経路が動き出し、細胞を死に導きます。
オタマジャクシはカエルになる過程で、尾部がなくなりますが、尾部の細胞はこのアポトーシスによって細胞死が誘導されて除去されます。
つまり、個体が変化するために尾部の細胞を除去する必要があるため、尾部細胞内のアポトーシススイッチがオンになり、細胞死が誘導されるわけです。
われわれの身体に大きく関係するアポトーシスは、がん化した細胞のアポトーシスです。
実際、我々の体内では、常にがん細胞が生まれています。
しかし、細胞自身にがん化のチェック機能があるため、がん化した細胞はアポトーシススイッチが入り、細胞死によって除去されます。
疾患としてのがんは、このアポトーシススイッチを入れることができず、細胞死が誘導されないためにがん細胞が増殖し続けることによって起こります。
イルカの分化誘導した神経細胞に、ポリ塩化ビフェニール代謝物を添加した時に、神経細胞がネクローシスではなくアポトーシスを起こしたということは、ポリ塩化ビフェニール代謝物が細胞内に入ってきた時に、細胞は侵入された自分が除去された方が個体によっては有利、と判断してアポトーシススイッチを入れたと考えられます。
このような研究は、環境学が比較的以前から行われていたにもかかわらず、あまりなされてきませんでした。
21世紀になって、各分野が立割状態から、相互協力による複合分野構築に積極的になってから大きく進んだ研究です。
そしてこのカズハゴンドウを使った研究は、環境評価だけでなく、その他にも大きな役割を果たす可能性があるのです。
4. 幹細胞を使った種の保存
カズハゴンドウの細胞のダイレクトリプログラミングが成功した現在、「カズハゴンドウの繊維芽細胞から神経細胞を作ることは可能」となりました。
こうしたダイレクトリプログラミングの研究が進むと、今までの多能性幹細胞、iPS細胞は不要になるのかといえば、そうではありません。
体細胞からiPS細胞を作るためのノウハウ、体細胞からダイレクトリプログラミングによって他の体細胞作るノウハウ、これらを複合的に応用することによって、可能になるのではないかと予想されていることがあります。
それは、絶命が危惧される動物種、自然生殖では維持が難しいと判断された動物種、人工生殖が困難な動物種の個体を、幹細胞やダイレクトリプログラミングを使って構築し、その動物種の保存が可能ではないか?という考えです。
1つの個体を“人工的に”作成するため、倫理的・道徳的な問題は派生することが予想されていましたが、その動物種が地球上から消えてしまう前に、種の維持に必要な個体をこういった技術で作成できるのではないかと現在考えられています。
今回の研究成果も、ちょっと遠い未来になりますが、種の保存を幹細胞を使った分化誘導、ダイレクトリプログラミングを使った分化誘導を応用して行う時には、重要な研究知見として使われると考えられます。