人工的に卵母細胞の誘導に成功
京都大学高等研究院、ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)の斎藤通紀教授と茂谷小百合特定研究員を中心とする研究グループは、霊長類であるカニクイザル(Macaca fascicularis)の多能性幹細胞(ES細胞)から減数分裂期の卵母細胞を人工的に誘導する事に成功しました。
霊長類の生殖細胞を人工的に誘導する試みは世界中で研究が進められており、多くの研究チームが幹細胞から卵子、精子という生殖細胞へ分化させることを目標研究が進められています。
研究成果は、学術誌「The EMBO Journal」に「Induction of fetal meiotic oocytes from embryonic stem cells in cynomolgus monkeys」というタイトルで掲載されました。
こういった研究は、ヒトの生殖細胞の発生機序の解明に重要であり、不妊治療などに応用することを視野に入れているため、少子化が進んでいる先進国では特に力が入れられている研究です。
カニクイザルは一般的にはあまり知られている生物ではありませんが、生命科学の分野ではヒトのモデルとして多くの研究に使われているモデル生物です。
カニクイザルの成体は、体長が40 cmから60 cmほど、尾の長さが60 cm以上あります。
体重はオスで5 kgから9 kg、メスは3 kgから6 kgあります。
通常は50頭から60頭の群れで生活する社会性を持つ動物で、基本的に群れの中で生殖を行います。
メスの妊娠期間は170日から200日間、子ザルの出生時体重は約350 gほどです。
主に植物を主食としていますが、鳥、トカゲ、カエル、魚なども捕食し、雑食性の動物に分類されています。
海岸などにあるマングローブの林に生息する個体はカニなどの甲殻類も食べるため、これが名前の由来とされていますが、特にカニを好んで食べるというわけではありません。
身体の形態が人と類似ている点が多く、同一の条件での飼育が可能であるので実験動物として昔から使われていました。
形態的な研究、投薬の研究においては、ヒトと似ているという点において便利なために多用されています。
実験動物としてだけではなく、宇宙飛行のテストとしてロケットに乗せられたこともあります。
京都大学のグループは、このカニクイザルの多能性幹細胞から卵母細胞を誘導する事に成功しましたが、この研究の足がかりとなった研究があります。
ヒトiPS細胞からの卵母細胞誘導
斎藤通紀教授のグループは、2018年にはヒトiPS細胞から全ての精子と卵子の起源となる細胞である、「始原生殖細胞様細胞」を誘導し、その細胞から卵原細胞を作ることに世界で初めて成功しています。
卵原細胞とは、受精して発生が始まってから7週目周辺のヒト胎子から新生子にまで存在します。
この卵原細胞は、胎児期になると分化を開始して卵母細胞に分化します。
つまり、卵原細胞は卵母細胞に分化を開始する直前の細胞です。
この時点で、研究グループは始原生殖細胞様細胞の誘導を可能とする技術を持っていましたが、その先に分化させることはできていませんでした。
2018年の研究成果によって始原生殖細胞様細胞から先に分化を誘導させることが可能となりましたが、次のハードルは卵原細胞から卵母細胞、そして卵子に分化させる技術の開発です。
カニクイザルの研究概要
2018年の研究成果から大きく発展して、今回は卵母細胞の作成に成功しました。
今回の研究は、カニクイザルの多能性幹細胞由来の始原生殖細胞様細胞を準備し、マウス胎児の卵巣体細胞と細胞集団を構築します。
マウスの細胞を使う方法は2018年にも使われており、この手法は現在では一般的な手法になっています。
構築された細胞集団は、気相液相界面培養という方法で培養されます。
この培養方法は、コラーゲンでコーティングされたフッ素樹脂の膜を作り、この膜状で細胞集団を培養する方法です。
気相と液相が存在するため、酸素は気相から供給され、栄養は液相(培養液)から供給されます。
この培養によってカニクイザルの卵原細胞が得られますので、その卵原細胞をさらにマウス胎児の卵巣体細胞と再び細胞集団を作らせます。
この細胞集団をもう一度気相液相界面培養すると、約4ヶ月で減数分裂期の卵母細胞が誘導されました。
これまでの研究では卵母細胞までの誘導はできなかったのですが、今回の研究とこれまでの研究の違いはどこにあるのでしょうか?
この違いが今回の研究成果を生んだのですが、原因はiPS細胞の染色体特性にありました。
2018年までの方法では、卵母細胞に誘導ができません。
正確に表現すると、卵母細胞への分化誘導率が非常に低く、実用化に耐えられる技術ではありませんでした。
減数分裂が進行しないということが大きな原因と考え、研究グループはヒトiPS細胞染色体のうち、性染色体であるX染色体の特性が生殖細胞分化に影響している可能性を考えました。
そこで培養方法を根本から見直し、今回の研究成果につなげたのです。
新しい幹細胞の培養方法
研究グループによれば、カニクイザル多能性幹細胞株では、全ての細胞において2本の染色体のうち一方のみが活性化しており、正常に等しいX染色体の特性を持っていることがわかっています。
これはヒトiPS細胞とは異なる点で、研究グループはこの点に着目してカニクイザルの多能性幹細胞をこの研究に用いました。
さらに、マウス胎児卵巣細胞と2回凝集処理をして細胞集団を作っていますが、この2回目の処理が重要です。
前述の通り、この方法で分化誘導に成功していますが、卵母細胞誘導効率も高く、実用化に耐えうる方法です。
この培養方法は論文中で「サル再構築卵巣法」とされており、今後はこの呼び方で定着するでしょう。
誘導された卵母細胞は、形態、また遺伝子発現レベルの解析で実際のカニクイザル卵母細胞に類似しているとされています。
遺伝子発現解析は、単一細胞遺伝子発現解析で確認され、さらに全ゲノムDNAメチル化解析も行われました。
単一細胞遺伝子発現解析は、1つの細胞から得られる核酸サンプルを使って、次世代シーケンサーという機械で遺伝子発現全体を網羅的に調べる実験方法です。
この実験から得られたデータをこれまで調べられている細胞の遺伝子発現パターンと照らし合わせることによって、その細胞がどういった細胞グループに属するのか、性質が近いのかを特定することができます。
そしてメチル化解析の結果、人工的に作られたカニクイザル卵母細胞のゲノムでは、ゲノム全体でDNA脱メチル化が進行しており、マウス、ヒトの卵母細胞と類似した経過を辿ることが確認されています。
全ゲノムDNAメチル化解析は、DNAのメチル化を調べる実験です。
DNAメチル化とは、遺伝子変異のようなDNA配列変化を伴わずにメチル化によって遺伝子の発現パターンを制御するメカニズムです。
全ゲノムDNAメチル化解析によってメチル化されている場所がほぼ全て解析することができます。
ヒトやマウスの生殖細胞では、始原生殖細胞から卵原細胞を経て卵母細胞に分化するに従ってDNA脱メチル化が進行することが報告されているため、この流れが検出できれば、人工的に作られた細胞が生殖細胞の性質を持つかどうかが判定できます。
さらに、X染色体の場合、活性化状態によってDNA脱メチル化の状態、程度が異なり、これまでの実験を応用して作られたヒト再構築卵巣においても同様の傾向が見られました。
この研究によって、ヒトが属する霊長類モデル生物の多能性幹細胞から減数分裂期に入っている卵母細胞を人工的に構築することができるようになりました。
これからは、この方法を用いて卵母細胞分化を制御する分子機構の解明が期待できます。
卵母細胞分化制御の解明は、先天的な不妊症の解明にもつながり、治療方法の確立、また人工受精方法の進歩にも大きな役割を果たすと考えられています。
少子化対策として様々な政策が行われていますが、「子供を産まない」だけでなく「子供が欲しくても産めない」という人々も存在します。
そのため、不妊治療などの補助にも政府は着手し始めていますが、その不妊治療がより高い成功確率で行えるようになることは、こうした政策決定に大きな影響を与えると考えられます。
再生医療として行われているものとくらべると、ようやく基礎研究を行う環境が整いつつあるというレベルですが、幹細胞を使った生殖細胞の研究、そこから発展する再生医療における治療方法確立は多くの人々が待ち望んでいるものです。