1. COVID-19に見られる症状の個人差
新型コロナウイルスに感染した場合、発症する、発症しない、また発症した場合の症状には個人差が見られます。
人によって症状が悪化する、悪化しないという現象の中にも、個人差によるものが含まれます。
この個人差は、遺伝的背景の相違によるものであるということが報告されています。
新型コロナウイルスへの感染と、重症度が人によって異なる主な要因の1つに遺伝的背景がある事はすでに報告されており、現在はどういった遺伝的な特徴によって個人差が生まれるのかが解析されています。
現在の所、新型コロナウイルス感染者の20%から30%の患者が重篤な症状を呈します。
この重症化の原因は現在でも明らかになっておらず、COVID-19重症患者への治療方法開発にとって大きなハードルの1つになっています。
この解析に重要な事は、「新型コロナウイルス感染の個人差を再現可能なモデルが構築できるかどうか」です。
この事を解決するための研究結果が、京都大学iPS細胞研究所、増殖文化機構研究部門の研究グループによって発表されました。
ヒトiPS細胞にアンギオテンシン変換酵素遺伝子を発現させることによって、未分化なiPS細胞内に新型コロナウイルスが感染し、その細胞内でウイルスが増殖するモデルを開発したことがこの研究成果の柱です。
2. 何のためにiPS細胞に感染させるのか?
ヒトiPS細胞は、多能性と自己複製能力を持つ細胞というだけでなく、あらゆる個人から樹立が可能です。
iPS細胞は、遺伝情報をドナーから引き継ぐため、ヒトiPS細胞のストックは、多様な遺伝的背景を持つ人の集団の傾向を反映しています。
この遺伝情報の多様性を使って解析を行えば、COVID-19とその症状などの個人差を解明する手がかりになります。
ここで、人工的にiPS細胞に新型コロナウイルスを感染させるためには1つのハードルがあります。
新型コロナウイルスは、感染するためにはアンギオテンシン変換酵素やTransmembrane protease, serine 2(TMPRSS2)が細胞に発現していることが必要です。
そのため、アンギオテンシン変換酵素とTMPRSS2の高い発現が見られるII型肺胞上皮細胞、線毛細胞、咽頭上皮細胞、腸管上皮細胞には新型コロナウイルスは高確率で感染します。
しかし、未分化なヒトiPS細胞ではアンギオテンシン変換酵素の発現が低いため、新型コロナウイルスが感染できません。
iPS細胞を、II型肺胞上皮細胞、腸管上皮細胞に分化させた場合は新型コロナウイルスが感染するのですが、分化誘導前のiPS細胞には感染できないのです。
II型肺胞上皮細胞、腸管上皮細胞への分化誘導は、およそ3週間以上の時間を必要とします。
さらに、iPS細胞株によって分化誘導効率が異なることが多いため、ドナー間の感染、症状の違いを解析するには向いていません。
3. 新型コロナウイルスのiPS細胞への感染を可能にするには?
iPS細胞株のストックは、様々なドナーから集められているため、新型コロナウイルス感染時の個体差を遺伝子的に解析するには適した実験材料です。
しかし、先に述べたようにiPS細胞に新型コロナウイルスは感染できません。
iPS細胞を分化誘導して、新型コロナウイルス感染が可能な細胞にするには時間がかかり、さらに分化も常に一定の早さで行われるわけではないので、個体差の研究をしようとして、個々の細胞の分化度合いの差に振り回される結果となってしまいます。
この解決のためには、iPS細胞に新型コロナウイルスを何とかして感染させることが必要です。
今回の研究報告は、このiPS細胞への新型コロナウイルス感染が可能になったという内容なのです。
研究グループは、iPS細胞の遺伝子改変を行い、新型コロナウイルス感染に必要とされるアンギオテンシン変換酵素とTMPRSS2を発現するiPS細胞を作成しました。
まず、TMPRSS2を発現するiPS細胞に新型コロナウイルスを感染させようと試みましたが、新型コロナウイルスはこの細胞には感染しませんでした。
感染の有無は、感染操作後、細胞から新型コロナウイルスが放出させれば、細胞内でウイルスが増殖した証拠となり、感染が成立したことを示します。
しかし、TMPRSS2を発現するiPS細胞からは、新型コロナウイルスが放出されませんでした。
4. iPS細胞で新型コロナウイルスの増殖に成功
もう一つの、アンギオテンシン変換酵素を発現させたiPS細胞に新型コロナウルスを感染させる操作を行うと、TMPRSS2の時とは異なり、細胞から新型コロナウイルスが放出されました。
細胞内を観察すると、ウイルスのRNA合成を示唆するものも観察され、アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞で、新型コロナウイルスの感染が成立したことが証明されました。
実際に、この細胞内からはウイルスゲノムも検出されており、ウイルスのタンパク質も、アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞内で検出されています。
5. アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞を使ったテスト
この細胞を使って、研究グループはCOVID-19治療薬候補8つのテスト行っています。
8つの候補薬の中で、クロロキンとファビピラビルは新型コロナウイルスの増殖を抑制することができませんでした。
そして、イベルメクチンは、細胞に対する毒性が強いため評価が不可能という結果が出ています。
候補薬の中で最も効果のあった薬は、レムデシビルでした。
また、カモスタットと、ナファモスタットも新型コロナウイルスに対して効果を示すことが証明されています。
この結果から、アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞は、COVID-19に効果のある薬物スクリーニングに使用が可能である事が示されました。
さらに、この細胞の使用目的である「個人差」を解析するために、8人の異なるドナーから作成したiPS細胞をアンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞に改変し、ウイルス増殖能力をテストしました。
この結果、男性由来のiPS細胞と女性由来のiPS細胞を比較すると、新型コロナウイルスは、男性由来のiPS細胞での方が増殖能力が高いことが明らかになりました。
つまり、男性由来のiPS細胞内の方が新型コロナウイルスは増殖しやすい、よって、細胞内におけるウイルス増殖は、男女の性差があることが示唆されたわけです。
血液型、遺伝子配列のタイプなどの分類に従ってiPS細胞を選び出し、アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞に形質を転換、新型コロナウイルスの感染実験を行い、ウイルス増殖レベルを比較すれば、どういった細胞の特徴が新型コロナウイルスの増殖に差を生むのかが明らかにできます。
6. 統計的な解析と細胞工学的な解析
こういった個人差の解析では、患者とそれぞれの症状の重さを分類し、統計学的に解析する方法があります。
この研究では、例えば男女間での新型コロナウイルスの増殖の差、年齢別の重症度などが、統計的に解析されて違いがあるのかどうかを示すことができます。
そして今回の研究報告で示された、細胞工学的な実験手法と併用すれば、新型コロナウイルスの増殖に影響する要因をかなり正確に絞り込むことができます。
実際、統計学的な手法で、血液型によって新型コロナウイルスへの感染レベルが異なる結果が報告されています。
次のステップとしては、それぞれの血液型由来のiPS細胞を準備し、アンギオテンシン変換酵素発現iPS細胞を作成、新型コロナウイルスの感染操作後に感染レベル、増殖レベルを比較すれば、血液型の違いによる感染レベルの違いを分子生物学的に明らかにすることが可能です。
iPS細胞を多くのドナーから集めるということは、個体差をもつ細胞を多く保有することができるということであり、個体差が大きなカギとなる疾患の解析には、iPS細胞バンクは非常に有用なものになります。