1. 男性更年期障害治療に大きな一歩
神戸大学大学院医学研究科の青井貴之教授らの研究グループは、ヒトiPS細胞から男性ホルモンを産生するライディッヒ細胞を作成することに成功しました。
この細胞は、男性更年期障害治療のカギを握る細胞と考えられており、今回のライディッヒ細胞作成の成功によって、男性更年期障害治療が大きく進歩すると期待されています。
この作製した細胞を、男性更年期障害で苦しむ患者に移植し、不足している男性ホルモンを供給することによって障害の軽減、治癒を目指すために用いることを視野に入れ、今後の研究が展開されます。
この研究は、令和元年度の国立研究開発法人日本医療研究機構(AMED:Agency for Medical Research and Development)の、「再生医療実現拠点ネットワークプログラム」の技術開発個別課題に採択されたテーマで、大きな期待を寄せられていた研究です。
青井貴之教授は、テストステロン産生細胞の1つである、Leydig細胞の作成と臨床応用に関する研究(研究代表者・神戸大学大学院医学研究科教授、藤澤正人博士)にも参加しており、男性ホルモン産生細胞の分化誘導の最先端に立っている研究者です。
2. 男性更年期障害とは?
更年期障害は、40歳周辺以降に、男性、女性のホルモン分泌量の低下が原因で起こります。
自律神経失調症に似た症状で、様々な症状を示す体調不良と、情緒不安定が特徴です。
女性の更年期障害は古くから知られており、閉経期前後の約10年間に、卵巣ホルモンであるエストロゲンの分泌が急激に起こるために症状が現れます。
テレビのCMなどで、更年期障害に対処するための薬品を多く見る機会がありますが、これは、多くの人がこの更年期障害で苦しんでいるために、製薬会社は多くの商品を市場に投入しているためです。
これまでは、女性の更年期障害が主に注目されていましたが、近年、男性の更年期障害も注目されており、日本では最大200万人の患者がいると予想されています。
女性の更年期障害は、発症が閉経期に集中し、発症期間が数年から10年くらいであるのに対し、男性の更年期障害は長期間にわたるケースが多い事が特徴です。
40歳以降、50歳から70歳でも発症の可能性があり、加えて長期間症状に苦しむケースも多々見られます。
さらに、精神状態を大きく左右する症状が出ることが多いため、仕事のストレスのため、加齢による疲れやすさと決めつけてしまいがちで、潜在的な患者数は、日本国内ではかなりの数に上ると考えられています。
男性更年期障害の直接の原因は、男性ホルモンであるテストステロンの分泌が加齢によって低下することです。
現れる症状は大きく3つに分けられます。
- 性機能に関連する症状:性欲の低下、勃起障害(勃起不全、ED:Erectile Dysfunction)が代表的な症状です。
- 精神的・心理的な症状:個人差が大きな症状ですが、一般的には抑うつ感、不安感、疲労感、そして記憶力や集中力の低下が挙げられます。
- 身体的症状:女性の更年期障害と同様に、発汗、体の火照り、睡眠障害が代表的な症状です。
さらに人によっては、関節や筋肉に張り、疲労感などの症状が出ることもあります。
日本人は、勃起障害の有病率が高いのですが、これは更年期障害の症状として比較的日本人に出やすいのではないかという予測もあります。
勃起障害の場合、これが原因で、精神的・心理的な症状に発展することもあります。
更年期障害の場合、男性ホルモンの分泌低下という確固たる原因があるのですが、1から3の症状を「精神的なもの」と考えて、カウンセリングに通うだけの対処では、なかなか症状の改善は見込めません。
近年の、男性更年期障害への理解の深まり、認知によって徐々に適切な対処をするケースが増えてはいますが、根本的な治療となると、現時点ではなかなか難しい状況です。
今回の研究成果は、そういった男性更年期障害を取り巻く治療環境に大きな光を当てるものです。
まずは人工的に作成することができたライディッヒ細胞が産生、分泌するテストステロンについて詳しく見てみましょう。
3. テストステロンの役割
更年期障害の原因となるテストステロンの分泌低下は、加齢によるものが中心です。
男性ホルモンの95 %は、睾丸で作られ、代表的なホルモンがテストステロンです。
ストステロンは様々な機能・作用を持っており、以下に挙げる臓器、器官で重要な働きをしています。
- 脳:うつ、性欲、記憶、認知力、集中力に、関与する。
- 皮膚:脱毛や皮脂合成に関与。
- 筋肉:筋肉量の調節、筋肉増加。
- 肝臓:血清タンパク質の合成。
- 腎臓:エリスロポエチンの刺激。
- 骨髄:幹細胞の刺激。
- 骨:骨伸長増加、骨端閉鎖。
- 生殖器:陰茎の発育、造精機能調節、前立腺への作用。
このような多岐にわたって影響を及ぼすテストステロンの分泌量が低下すると、体のあちこちに影響が出ることは当然と言えます。
4. テストステロンを分泌する細胞
テストステロンは、精巣の精細管付近に存在するライディッヒ細胞(別名ライディッヒ間質細胞)で分泌されます。
ライディッヒ細胞は、1850年にドイツの医学者、フランツ・ライディッヒによって発見されました。
男性の精巣に存在するライディッヒ細胞は、加齢と共にテストステロンの産生能力が低下します。
加齢によってなぜテストステロン産生が低下するのかというメカニズムは依然として不明ですが、テストステロンなどの「ステロイド」の産生を休止させたライディッヒ細胞は、その後起動させた時の産生能力の低下が遅延することから、細胞の老化が原因ではないかと考えられています。
今回の研究の目的は、この老化してしまったライディッヒ細胞によるテストステロン低下を防ぐために、iPS細胞から分化誘導した人工ライディッヒ細胞を移植してテストステロンを産生させ、更年期障害を防ごうとするものです。
ライディッヒ細胞作成のカギとなったのは、性腺、副腎の発生に重要なNR5A1というタンパク質です。
正式名称がNuclear receptor family 5 group A member 1であるNR5A1は、Steroidogenic factor 1としても知られているタンパク質です。
このタンパク質を、男性由来のiPS細胞に発現させると、ライディッヒ細胞特有の遺伝子発現パターンを示す細胞が出現したことから、今回の研究成果が生まれました。
さらに、この細胞の分泌物を調べたところ、男性ホルモンと同様の物質を分泌しており、この物質を使って「男性ホルモンの刺激によって増殖する細胞、LNCaP細胞」を培養したところ、増殖が確認されました。
つまり、分化誘導した細胞は、ライディッヒ細胞と同じ遺伝子発現パターン、男性ホルモンと同様の機能と作用をもつ物質を分泌しており、詳細な解析の結果ライディッヒ細胞と確認されたわけです。
ライディッヒ細胞は、そのままでは細胞増殖しにくく、人工的に培養して増殖させることが困難な細胞です。
現時点では、iPS細胞から分化誘導して作成するしか方法がありません。
そのため、今回分化誘導に成功したライディッヒ細胞を使って、人工的に培養し、増殖を可能とする培養プロトコール(細かい培養条件を示した実験方法)の確立のための研究が行われると予想されます。
5. 臨床応用するための条件
臨床に応用するための条件は、この人工ライディッヒ細胞が安定的に供給されることが最も重要な条件です。
ヒトの加齢は防ぐことができないため、男性全てが男性更年期障害の患者候補であるため、大量のライディッヒ細胞を準備しなければなりません。
iPS細胞から必要に応じて分化誘導するという方法もありますが、コストの面で問題があり、医療費が高くなる可能性があります。
また、工場的な大量生産システムの場合、治療に使われないライディッヒ細胞を保存することが必要となります。
一定期間を過ぎたライディッヒ細胞は、細胞老化のおそれがあるため、いったん廃棄し、新しくiPS細胞から分化誘導したライディッヒ細胞で充足させる方法では、やはりコストの問題があります。
そのため、iPS細胞から分化させたライディッヒ細胞が自己増殖し、ある程度の数まで増やせることが、一般的な臨床応用の条件となります。
今回の研究成果で得られたライディッヒ細胞がそのまま臨床に使われるのではなく、この細胞を使ってさらにライディッヒ細胞の詳細を明らかにし、iPS細胞の分化誘導条件のトライアンドエラーを繰り返して、治療に必要なライディッヒ細胞の安定供給に耐えうる改良型の人工ライディッヒ細胞を開発することが今後の研究の柱になると思われます。