「細胞は何から作られるのか?」
この命題は古くから議論されてきました。数多くの研究者が科学の進歩によって研究を深め、持論を展開し、前人未踏のテーマに挑んでいました。
そのような時代、20世紀半ば、ソ連の科学者であったレペシンスカヤは、「心臓の細胞は、最初から心臓の細胞だったのではなく、何かから心臓の細胞が作られる」と発表し、幹細胞の概念にもつながる考え方を指し示したのです。
当時のソ連の科学アカデミー界は、1924年から1953年までソ連の最高責任者だったスターリンの支持を得たルイセンコが中心で、レペシンスカヤもルイセンコ・グループに所属していました。
農学者だったルイセンコは、独自の研究考察から、定説だったメンデルの法則(エンドウの交配実験から明らかにした遺伝の法則)やダーウィンの自然選択説(進化の要因論)を否定。そのため、遺伝学の研究はスターリンが死去する1953年まで滞ってしまいます。
他方、マキシモフという組織学と発生学の科学者がいます。彼はまだロシア帝国だった時代に「幹細胞(stem cell)」という言葉を作り出しています。
1721年
ピョートルに「皇帝」「大帝」「祖国の父」の称号が与えられ、ロシア帝国が成立。
1908年
マキシモフによって「幹細胞(stem cell)」という言葉が生まれる。
1914年
第一次世界大戦勃発。
1917年
レーニンの社会主義革命によってロシアロマノフ王朝は終焉。
1918年
世界初の社会主義国家ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の成立。
1922年
ウクライナ等を加えた新連邦国、ソビエト社会主義共和国連の樹立。
1924年
レーニン死去。スターリンが最高責任者に着任。
1939年
第二次世界大戦勃発。
1940年
ルイセンコがソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長を1965年まで勤める。
1900年半ば
レペシンスカヤが「心臓の細胞は、最初から心臓の細胞だったのではなく、何かから心臓の細胞が作られる」と発表。
マキシモフの考察では、「血液中の血球が次々と作り出されている現象は、細胞分裂だけでは説明がつかない」、さらに「別の細胞が血球に変化しているのではないか」と考え、新しい何か(=幹細胞)を見つける扉を開いたのです。これが現在の幹細胞に通ずる理論提唱となりました。
なんと、1908年(日本では明治41年)の話です。
核実験による健康被害と幹細胞研究
幹細胞の研究は皮肉なことにアメリカ・ソ連ともに核兵器の研究により飛躍的に発展しました。
アメリカにおいてはルーズベルト、トルーマン大統領時代に計画(通称マンハッタン計画=広島、長崎への原爆投下)され、放射線研究の一環として幹細胞の研究もスタートしました。
同じくソ連の幹細胞研究もまた、核兵器の開発を行っていたオビンスクという街で研究が行われていました。
核兵器は爆発力で殺傷する爆弾兵器というより、放射線という毒をまき散らす兵器であるという考え方でしたので、その毒を消すことができる解毒薬も開発する必要がありました。幹細胞とはいわば、放射能という毒に対する1つの解決法だった訳です。
このように幹細胞の研究は米ソともに軍事産業の一環として取り扱われ、ゆえに莫大な予算が投下されてきました。
以下、具体的に時系列を追って振り返ってみましょう。
- ソ連とアメリカの核兵器開発競争を背景に、ソ連のセミパラチンスク(現カザフスタンの北東部)では大気圏内核実験が何度も行われました。
- 大気圏内における核実験は、1963年に「部分的核実験禁止条約」が結ばれて行われなくなりますが、それまでは実験場周辺の住民は放射能による健康被害を受け続けることになります。
- ソ連政府が着目したのは、このような住民の健康被害への対策ではなく、もしもアメリカからの核攻撃があった場合、放射能によって同じ健康被害が指導者や高官にも起こる可能性を考え、ソ連科学アカデミーに健康被害に対する治療研究を行わせました。
こうして、幹細胞研究は核兵器開発競争の中で大きく進展しました。特にソ連では、幹細胞を用いて放射能による健康被害を治療する研究が行われました。
これにより、幹細胞の概念が一層広まり、医学や生物学の分野での研究が加速されたのです。
しかしながら、軍事的な背景による幹細胞研究の進展にも関わらず、その後も幹細胞研究は純粋な科学研究だけでなく、倫理的な問題や道徳的な議論を引き起こすことになりました。特に、胚性幹細胞の取得における倫理的問題は激しい議論を巻き起こしました。
現在では、幹細胞研究は多くの成果を挙げ、医療や再生医学の分野での応用が進んでいます。幹細胞は個々の細胞から多様な細胞へと分化する能力を持っており、患部の再生や障害部位の修復などに活用されています。
特に、臓器の移植待機リストの解消や難病治療への道を開く可能性が期待されています。
幹細胞の研究は、過去の科学者たちの努力と挑戦の成果であり、現代の医学や生物学においても重要な分野として継続的に研究されています。
特に目立った白血病については深く研究されていました。白血病幹細胞による急性白血病は、白血病幹細胞が治療抵抗性を示し再発の原因になるからです。
1969年、フリーデンシュタイン・アレクサンダー・ヤコブレビッチ(1924-1998)は、もっとも重要なMSC(間葉系幹細胞)を発見します。
間葉系幹細胞とは、心臓や脳などの人体から採取することが難しい組織幹細胞の代わりに活用できる幹細胞のことです。この発見によってますます幹細胞再生治療の可能性は広がりました。
発見当時は、ベトナム戦争の真っ最中であり、さらに東西の冷戦中という状況下でなければ、間違いなくノーベル賞を受賞していたかもしれません。
1979年、ソ連はアフガニスタンに侵攻します。その結果、ソ連軍は約1万5千人の戦死者と、7万人以上の負傷者を出すことになります。
この時ソ連は、戦闘で「脊髄」「脳」といった神経系の損傷を負った場合、幹細胞技術を応用して治療するため研究を行っていた、と言われています。
実際にどのように行われていたのかは、国家機密、軍事機密のベールに包まれていて明らかではありませんが、かなり進んだ研究が行われていたのではないかと予想されています。
1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生します。
放射能による健康被害が広範囲にわたって発生しました。そして、この事故の5年後、ソ連は崩壊します。当時、ソ連が解体されたばかりのロシアは社会的な混乱を極め、科学アカデミーにも十分な予算がなく、チェルノブイリ事故での健康被害への対応も、追跡調査ができていないなどの不備が目立ち、国際協力に頼らなければ治療もできない状況になっていました。
進んでいたと思われる幹細胞研究も治療に活かすことができませんでした。
その後、ロシアからは多くの研究者とソ連時代のさまざまな情報が西側諸国に次第に流出していくことになります。
ソ連の知見は現代の医学研究に貢献している
ソ連は国家体制の性質上、科学の成果を自由に発信できる国ではありませんでした。研究成果は国民のために活かされるのではなく、国家の資産、国家が国際的に有利になるためのツールとして用いられていたと考えられています。
そのため、どのような研究が行われ、どのような成果が出されていたかについては断片的な情報しかありません。
ソ連が崩壊後、知見を持った優れた科学者は周辺の新たな国で研究を続けました。
ある国は世界で5本の指に入る医療大国となり、幹細胞を使った再生医療の最前線を突き進み、現在では世界をリードする国になっています。
ソ連が自国のためだけに行った研究から続く知見が、現代の医学研究に貢献していることも、また事実なのです。
当初から他人の細胞の移植でもある幹細胞治療は非常に危険と見なされていました。これは現代においても同様で、白血病の治療で行われる骨髄移植はドナーとのマッチングが非常に重要なのは言うまでもありません。
一般的にドナーとのマッチングなしで骨髄移植をすると拒絶反応により95%が死亡すると言われています。そのためアメリカをはじめとする西側諸国では、ドナーと患者間のマッチングを必要としない幼弱なMSC(間葉系幹細胞)が歴史的な発見をなされた後もなかなか治験が進まなかったようです。
しかしながら、ソ連においては独裁的な政権のもと、軍事産業の一環として治験が強行されたことは容易に想像されます。このような世界的な対立構造と政治的背景の中で、MSC(間葉系幹細胞)を活用した治療についてソ連は西側諸国よりも20年も早くノウハウの構築に成功したのです。
また、一説にはペレストロイカ(ソ連崩壊=1991年)頃にはあらゆる幹細胞の治療ノウハウを構築していたとも言われています。いずれにせよそれらはソ連時代の産物であり、現在のロシアとは別の政権となります。
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